第8話 キャンパスの怪異
——歩行というのは、精神の揺らぎを如実に地表へと刻印するものだ。竹宮夏美の足取りは、ひどく重かった。
3号館の重厚なコンクリートの開口部から這い出てきた彼女の胸中は、ねっとりとした不透明な泥に満たされていた。もっと怪異の深淵について問い質したかったという不完全燃焼の渇望と、出まかせの嘘によってあの三雲という男の不興を買ってしまったのではないかという焦燥。
現世の論理と非日常への好奇心が複雑に絡み合った結果が、そのうつむき加減の、冴えない歩幅にそのまま表れていた。
涼しげなノースリーブのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織ったその姿は、相変わらず真夏のキャンパスで人目を引いたが、今の彼女に周囲の視線を気にする余裕など微塵もない。
小ぶりのショルダーバッグの紐を無意識に握り締め、砂利の道をただ視線だけでなぞるように歩いていた。不意に、上空から降ってくるような声が、彼女の思考の糸を断ち切った。
「——どうなさいましたか」
夏美が弾かれたように顔を上げると、そこには先ほど彼女を案内してくれた、あの年配の守衛が立っていた。男は皺深い顔に、いかにも現世の善意といった風の案ずるような色を浮かべている。
「どうも顔色が優れませんな。大丈夫ですか?」
夏美は自身の内に蟠る陰気を隠すように、努めて現世の調子を取り戻して微笑んだ。
「ええ、大丈夫です。先ほどは本当に、ありがとうございました」
「そうですか」
守衛は得心したように深く頷くと、その柔和な目を細めた。
「ならば、門までお送りいたしましょう。この敷地は広いですからね」
夏美は異を唱える理由もなく、その制服の背中の後について、再びテラコッタの道を歩き始めた。
◇
その頃、時刻を同じくして——3号館の2階廊下では、全く別の異変が胚胎していた。三雲准教授は、腕の中に次回の講義用と思しき分厚い資料の束を不作法に抱え、五号室の扉から這い出てきた。
だが、廊下を一歩、二歩と歩み始めた途端、彼の身体が凍りついたようにぴたりと停止した。
男は丸眼鏡の奥の目を奇妙に据わらせ、やおら顔を上方に向けた。クン、クン、と、大気を不自然に啜る音が響く。
三雲は顔を左右に細かく振りながら、まるで獲物の血臭を追う獣のように、あるいは視えざる境界の歪みを嗅ぎ分ける犬のように、空間の「匂い」を執拗に嗅ぎ回っているのだ。
そこへ、隣の教室からノートを抱えた男子学生がひょっこりと顔を出し、親しげに声をかけてきた。
「先生、さっきの可愛い女の子、一体誰なんですか? 今度僕に紹介してくださいよ。……でも、あの子、ちょっと変わってましたよね」
いつもなら他人の言葉など一蹴するはずの三雲が、弾かれたように反応した。丸眼鏡の奥の瞳が、酷く冷徹に光る。
「——しまった!」
三雲の口から、現世の調子を完全に欠いた鋭い叫びが漏れた。
彼は腕の中の授業道具一式を、呆然とする学生の胸へと乱暴に押し付けると、だらしのない長身を弾丸のようにしならせ、薄暗い廊下の向こうへと猛然と走り出した。
◇
一方、陽光の照りつけるキャンパスでは、夏美が守衛の先導のもと、緑の合間を縫うように歩いていた。しかし、どれほど歩を進めても、一向に正門らしき意匠が見えてこない。衣服の隙間を抜ける風の音が、いつしか妙に遠く感じられる。
(おかしい……。来る時は、こんなに歩いただろうか)
夏美の脳髄に、じわりと冷たい疑念が湧き上がる。気づけば、周囲からは学生たちの賑やかな声が完全に途絶え、建物の陰に隠れた、人気の全くない裏ぶれた小道へと足を踏み入れた。鬱蒼と生い茂る夏草の匂いが、妙に鼻を突く。
「あの——守衛さん。ちょっと、方向が違っていませんか」
夏美は後方から声をかけた。だが、前を行く守衛は何も答えない。制服に包まれたその背中は、操り人形のように不自然なほど直立したまま、黙々と、ただ黙々と歩みを進めるだけである。
やがて、道は校舎の裏手に位置する、古びたコンクリート壁の細い突き当たりで行き止まった。守衛の身体が、ぴたりと止まる。男は夏美に背を向けた形のまま、掠れた、しかし妙に粘り気のある声で喋り出した。
「君は——とっても甘〜い香りがするね。たまに君みたいに甘〜い香りがする子が居るけれど、君の香りは特別だね」
——怪異である。
夏美の全身の毛穴が、恐怖によって一瞬にして収縮した。水守の血脈が、これが現世の人間ではない『何か』だと告げている。逃げねばならない。しかし、どうしたことか、自らの百六十八センチの肢体が、まるで鉛でも流し込まれたかのように、指先一つ、一歩たりとも動かない。
守衛の身体が、ぎちり、と音を立てるような不自然さでこちらに向き直った。
「こんなに甘〜い君を、これから食べられるのかと思うと……私は天にも昇る気持ちだよ」
夏美は恐怖に目を見開き、男の顔を凝視した。
——口が、動いていない。
男の唇は一文字に結ばれたままであるのに、その悍ましい声だけが、彼女の脳髄の奥底に直接響き渡っているのだ。
(ここにいちゃダメ——!)
夏美が心の中で悲鳴を上げた、まさにその刹那であった。背後から、不意に強靭な質量を持った手が伸び、彼女の頭を背後から優しく、しかし抗いがたい力で抑え込んだ。
「——チャンネル、切るよ」
低く、どこか冷徹な声が鼓膜を叩く。次の瞬間、夏美の視界を遮るようにして、一人の男が立ちはだかった。だらしのない長髪、寝癖のついた後ろ姿。三雲である。
男が彼女の頭を覆うようにして、何事かを呟き、指先を複雑に交差させた。刹那、先ほどまで彼女の頭脳を狂おしく支配していたあの守衛の「声」が、嘘のように掻き消えた。
同時に、呪縛の解けた身体に自由が戻る。だが、三雲の行動は止まらない。
彼は夏美を自らの背後に庇ったまま、さらに聞いたこともない独特の音韻を持つ、呪術的な祝詞——あるいは『言霊』の群れを、地鳴りのように唱え始めた。三雲の長い背丈に阻まれ、夏美の位置からは、対峙する守衛の姿がどのようになっているのか視ることはできない。
ただ、大気が不自然に捻れ、時空が軋むような圧倒的な圧力が、その狭い空間に満ちていくのを感じるだけだった。三雲の唱文が最高潮に達した、その時である。
「——カーン」
突如として、空間の全てを爆砕するかのような、甲高い金属音が辺り一帯に響き渡った。
耳元で直接真鍮の鐘を打ち鳴らされたかのような、凄まじい衝撃。
夏美の耳裏にはキーンという鋭い耳鳴りが狂おしく残り、視界が急速に白濁していく。
現世の輪郭が融解し、彼女の意識は、底なしの暗黒の底へと滑り落ちるようにして、急激に遠のいていった——。




