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禊祓師(みそぎはらえし)  作者: 溶けた犬
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第7話 三雲准教授

——暗闇というのは、光の不在ではなく、世界の拒絶である。


夏美が踏み込んだその室内は、真昼の陽光を完全に遮断した、底なしの暗黒に沈んでいた。


窓という窓には分厚いブラインドが隙間なく下ろされ、八月の白々しい光を、あたかも不浄なものとして撥ねつけている。


開け放たれた扉から辛うじて差し込む光の中に、まず浮かび上がったのは、室内に居座る長大なソファの、煤けた背もたれであった。


それは侵入者を阻む衝立のように、こちらに背を向けている。


その向こう側には小ぶりなテーブル、そして突き当たりの壁際には巨大な机と、天井に届かんばかりの古びた本棚が、幽霊のように佇んでいた。


目が暗闇に慣れるにつれ、異様な光景が輪郭を結び始める。


机の周囲、本棚の隙間、そしてテーブルの上——至る所に、紙片や、何事かを書き連ねた資料が、まるで死骸のように乱雑に積み重なり、散らかっているのだ。


その時、手前のソファの影で、何かがもぞりと動いた。


「——だ、誰?」


低く、ひどく不機嫌そうな男の声が、澱んだ大気を揺らした。暗がりの中に横たわる、男性の不確かな輪郭。


夏美は思わず胸の茶封筒をきつく抱き締め、声を絞り出した。


「お休みのところ、突然すみません。水川神社の高橋宮司の使いの者です。……今度の、物件の資料をお持ちいたしました」


すると男は、いかにも煩わしげに鼻を鳴らし、ソファの影からだらりと腕だけを突き出した。そして、肉の薄い人差し指を床へ向けて、億劫そうに告げた。


「……そこに置いといて」


「おっ、置いといて……?」


夏美は困惑し、その場で硬直した。


このまま言われた通りに資料を置き去りにすれば、役目は完了する。

しかし、それではあまりにも空虚であった。


彼女が知りたかったのは、高橋宮司から聞いた、現世の理を超えた「裏の清め屋」の、もっと具体的な、確かな真実なのだ。このまま怪異の端緒を失うわけにはいかない。


「——それでは困ります」


焦燥のあまり、夏美の口からは、論理を欠いた奇怪な拒絶が飛び出していた。


すると男は、再びソファから手だけを突き出し、今度はそれを左右にヒラヒラと頼りなげに振ってみせた。


「高橋さんのところの人だよね。昨日、高橋さんから電話で概要は聞いている。大丈夫だから。後は、コッチで調べるからさ……」


男は吸い込まれるように、再び手を暗闇の奥へと引っ込めてしまう。


夏美は後戻りができぬところまで追い詰められ、半ば自暴自棄になって、口から出まかせの嘘を吐き出した。


「高橋宮司からは、その調べものを、私も一緒にお手伝いするようにと言われております」


刹那、ソファの向こうで気配が激変した。

男が、のそりとその上半身を立ち上げたのだ。


「えーと、あれ? ……眼鏡はどこだ。あ、キミ、ちょっと電気を点けてくれる。入口のすぐ横にあるから」


促されるまま、夏美は探るようにドアの脇にある壁のスイッチを押し下げた。


チカ、チカチカと、古びた安定器が悲鳴を上げるような音を発して、天井の蛍光灯が白々しい光を放ち始める。


突如として剥き出しになった現世の光の中で、夏美は初めて、その男の風貌を凝視した。年齢は三十代の半ばほどであろうか。


後ろで結ばれてはいるものの、そこかしこに酷い寝癖のついた長髪。顎の周りには不揃いな無精髭が散らばり、お世辞にも清潔とは言い難いだらしなさが全身から漂っている。


本当に、この男が、あの敷地で悍ましい異形を消滅させていた「その手のモノに精通している人」なのだろうか。ただの、現世の落伍者にしか見えない。


男は書類の海に溺れたテーブルの中から、手探りでようやく丸眼鏡を見つけ出すと、眠そうな目をこすりながらそれを鼻梁へと掛け、顔を上げた。


夏美は明るくなった室内へ、改めて視線を巡らせた。

散乱する資料をよく見れば、それは単なる紙屑ではなかった。


何かおどろおどろしい因縁を調べているかのような古い書類、古地図、そして特定の土地の起伏や境界を不気味に記した地形図が、机の上にびっしりと並べられていたのだ。やはり、ここはただの部屋ではない。


夏美は高橋から渡されていたメモの名前を脳裏で確認しながら、恐る恐る尋ねた。


「失礼ですが……三雲、先生……、ですよね」


「ええ、そうです。私はこの大学で准教授を拝命しております。それが何か?」


三雲は、不思議そうに首を傾げた。


「あ、すみません。申し遅れました。私、竹宮夏美と申します。水川神社で巫女に従事しております。何か、私にお手伝いできることがありましたら、何なりとお申し付けください」


三雲は眉をひそめ、大層困惑したような、いぶかしむような目を夏美に向けた。


「……あの高橋さんが、この件で君に手伝えって、本当に言ったの?」


現世を見透かすようなその眼差しに射すくめられると、夏美の胸中に急激な罪悪感がせり上がってきた。


この男の前で、拙い欺瞞など通用するはずもなかったのだ。居たたまれなくなった彼女は、がっくりと肩を落とし、白状した。


「……済みません。高橋宮司からは、ただ、その封筒をお届けするようにと言われただけで……。ただ、三雲先生が、このような怪異の案件を、一体どのように処理されているのか、そのお話を聞いてみたくて、つい、嘘を……。本当に、申し訳ありませんでした」


夏美は深く頭を下げ、きつく拳を握り締めていた。


夏美の告白を聞いた三雲は、それまで貪っていた微睡(まどろ)みの残滓を振り払うように、のそりとソファから立ち上がった。


最初、暗がりに横たわっていた折には判然としなかったが、直立したその輪郭は、百八十センチはあろうかという長身であった。


肉を削ぎ落としたかのような細身の体躯は、だらしのない衣服を纏っていながらも、どこか不気味な存在感を放っている。


三雲は足元の書類を踏まぬように移動すると、机の脇にある古びた回転椅子に腰を据え、長い腕を胸の前で複雑に組み直した。


——血脈というのは、時に本人の意志を超えて呪縛を強いるものだ。


三雲は組んでいた腕をゆっくりと解き、丸眼鏡の奥にある、底の知れない冷徹な眼差しを夏美へと向けた。


「竹宮さん。この手の話をね、あまり興味本位で詮索するのはお止めなさい。……実は昨日、高橋さんから君のことについて、電話で色々と伺ったんだよ。貴女の家系は、遥か古の時代から代々、巫女としての宿業を受け継いできた重き血筋だそうじゃないか。神職の理屈はどうあれ、それはね——客観的に視て、少なくとも君には『シャーマン』としての潜在的な受容体質、つまり此岸と彼岸を繋ぐ依代(よりしろ)としての素養が備わっているということだと、私はそう判断しているんだ」


男の言葉は淡々としていたが、その語気には、現世の境界線を厳然と峻別するような神経質な響きが含まれていた。


「現世の枠組みを融解させるような体質を持つ君に対してね、私が暗闇の底で行っている『それ』の仕組みを、あまりに軽々しく開陳するわけにはいかないんだよ。それは知識という名の毒になり得る。私が君にお話しすることはできないと、そう思ったのは、断じて意地悪や隠蔽の類ではないんだよ」


夏美はただ、黙って視線を床に落としていた。


三雲の丸眼鏡の奥の瞳には、その姿が、己の浅はかな虚言を悔い、深く反省している凡庸な娘のそれとして映っていたのだろう。


だが——それは完全なる誤認であった。


「違います」


夏美は弾かれたように顔を上げた。その瞳には、反省の色など微塵もなく、むしろ峻烈なまでの意志の炎が宿っていた。


「私は、丸三年の間、水守大社で巫女としての研鑽を積み、神職の学びを修めてまいりました。決して軽薄な物珍しさで申し上げているのではありません。神に仕える身として、現世の理を超えた真実の知識を深め、さらなる経験を積みたいのです。三雲先生の仰る『真実』を聞きたい。先生が境界の向こうで行われているその『お仕事』を、この目で拝見したいのです。断じて、興味本位などという安易な動機ではありません!」


二十三歳の娘が放った、混じり気のない直訴であった。その真っ直ぐな言葉の質量に、流石の三雲もしばし言葉を失ったように呆然と現世の空間を見つめた。


やがて、困ったように寝癖だらけの長髪をガリガリと掻き毟ると、深い溜息とともに呟いた。


「……高橋さんから聞いていた通りの、真っ直ぐな人だね。困ったな。一体、何から話したものか」


夏美はここが好機と見たのか、椅子の上で上半身を少し前のめりに傾け、男を射すくめるように問うた。


「高橋宮司からは、先生が『曰くのある物件』、すなわち世俗の因縁が澱んだ土地を専門に引き受け、対処されていると伺いました。三雲先生は——一体、どのような手段であの異形を『対処』されているのですか」


三雲は丸眼鏡の位置を指先で微かに直すと、天井の白々しい蛍光灯を仰ぎ見て、ポツリと呟いた。


「対処ねえ……。それじゃあ、竹宮さん。貴女が地鎮祭の場に巫女として立ち、祭壇の前で祈りを捧げる時、一体何を考えてその身を委ねているのかね。何を祈願している?」


夏美は不意の問いかけに、しばし己の脳髄の底をまさぐるようにして考え込んだ。やがて、水守で仕込まれた理路整然とした神道をなぞるようにして、静かに答えた。


「……その土地の守護神を厳かに祀り、これから人間がその土地を利用させてもらうことの、許しを得られるよう、ただ誠心誠意お願いしております」


三雲はそれを聞くと、満足げに、しかしどこか物悲しげに一度だけ深く首を縦に振った。


「——そうだね。竹宮さん、貴女が今仰ったことと、私が暗闇の底でやっていることはね、全く同じだよ。本質において、何ひとつとして違いはしないのだよ」


男の言葉は、まるで現世の境界線を融解させるかのように、静かに、そしてねっとりと暗い室内に響き渡った。


三雲の言葉の余韻が、現世の理を融解させるかのように室内へねっとりと染み渡り、夏美が次の言葉を紡ぎ出そうとした、まさにその刹那であった。


「ジリリリリリッ——」


鼓膜を直接微振動で掻き毟るような、けたたましい金属音が突如として空間を引き裂いた。


音の主は、ソファの前に置かれた、書類の海に半分埋もれていた古びた目覚まし時計であった。


三雲は長い腕を億劫そうに伸ばすと、その機械仕掛けの怪物を手元に引き寄せ、いとも容易くその咆哮を押し留めた。室内に、再び白々しい静寂が戻る。


「……おっと、竹宮さん、ごめんね」


三雲は丸眼鏡の奥の眠そうな目をしょしょぼつかせながら、頭の寝癖を再びガリガリと掻いた。


「……あー、ごめん。竹宮さん。私は、これから講義なんだ。そろそろ準備に入りたいから、もういいかな」


夏美は、そのあまりにも日常的かつ唐突な遮断に、文字通り呆気にとられて立ち尽くしていた。


先ほどまで怪異の深淵を覗き込んでいたはずの空間が、目覚まし時計の音一つで、いとも容易く大学の准教授室という極めて通俗的な現実へと引き戻されてしまったのだ。


その落差に眩暈を覚えながらも、彼女は神職の末端としての矜持をどうにか手繰り寄せ、気を取り直して頭を下げた。


「お、お忙しい時間帯に、不躾なお願いをしてしまい大変失礼いたしました。……何かございましたら、高橋宮司までお申し付けくださいませ。それでは、失礼いたします」


夏美は深々とお辞儀を終え、逃れるようにしてその部屋を後にした。


背後で、カチャリと境界の扉が閉まる。


◇


廊下に出た夏美を待っていたのは、やはり白々しい八月の熱気と、先ほどと変わらぬ学生たちの喧騒であった。


しかし、彼女の手のひらには、あの暗がりの五号室で触れた、現世の裏側の冷気がまだ、確かにこびり付いているような気がしてならなかった。

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