第6話 学舎の五号室
アスファルトの熱気に足裏を焼かれながら、歩くこと十分ほど。唐突にスマホが短い振動を震わせ、目的地への到達を知らせた。
夏美は液晶の光から、ようやく前方へと目線を引き上げた。
——途端、彼女は息を呑んだ。
そこには、周囲の雑居ビルを圧するような、ひときわ巨大な近代ビルの入口が、怪物のようにぽっかりと口を開けて待っていたのである。
高橋宮司からは、ただ、一枚の紙切れに無機質な住所と建物の部屋番号、そして『三雲京介』という氏名しか教えられていなかった。
まさか、あの深夜の敷地で異形を消滅させていた「裏の清め屋」の男が、このような近代建築の巨塊の中に潜んでいるとは、夏美の想像の範疇を遥かに超えていた。
呆然と立ち尽くす彼女の驚愕は、他でもない、あの温和な高橋宮司が仕掛けた、悪戯めいた小さなサプライズであったのだ。
夏美がビルの前でメモと巨躯を交互に見上げ、困惑の極みに達していた、その時である。
「失礼します。どちらかお探しでしょうか? 学生さんですか?」
横合いから、出し抜けに声をかけられた。
夏美は驚いて肩をすくめた。振り返ると、そこには端正な警備員の制服に身を包んだ、年配の男性が立っていた。突然の現世的な介入に、夏美は最初、男が何を言っているのかその意味を脳髄で咀嚼することができなかった。
ただ、視線が自然と男の胸元にピンで留められた金属プレートへと吸い寄せられる。そこには『早慶大学警備員』という文字が刻まれていた。
「あの……」
夏美は恐る恐る、声の調子を探るように尋ねた。
「この建物って、大学なんですか?」
警備員は、その迷い子を見るような柔和な目で応じた。
「はい、そうです。どこかお探しでしょうか?」
「ええと、その……3号館の2階にある5号室という場所にいらっしゃる、三雲さんという方にお届けものをお持ちしたのですが。場所を教えていただけますでしょうか。三時半に約束を執り行っております」
警備員は手元にあった黒いモバイル端末に視線を落とすと、何やら確認作業をするように指先を滑らせた。やがて、安心させるような笑みをその皺深い顔に浮かべる。
「いいですよ。ちょうど私もそちらの棟へ行く用事がありますので、ご案内しましょう」
◇
夏美は安堵の息を漏らし、警備員の先導に従って、建物の正面に鎮座する巨大な石段を上がり始めた。一段、また一段と、二十段ほどのステップを踏み越えた先、視界が一気に開けた。
そこは広大なエントランスホールとなっており、さらにその向こう側には、信じ難い光景が広がっていた。
都会のビル群の只中であるとは到底信じられぬほど、濃密な緑が、そこには豊かに生い茂っていた。木々の波間に、幾つもの低層のキャンパスが点在する、まるで現世から切り離されたかのような特異な風景が広がっている。
「広ーーーい」
それは感動であったのか、あるいは二度目の驚愕であったのか。夏美の薄い唇から、微かな感嘆の吐息が文字通り漏れ出てしまった。
「広いですよね。入学したての一年生なんかは、よくこの中で迷子になっていますよ」
警備員は、夏美の驚きを微笑ましく見守るように、静かにそう言った。
親切な警備員の背を追うようにして、竹宮夏美は陽だまりの階段をゆるゆると下りていった。
視界の先には、都会の喧騒を丸ごと遮断したかのような、瑞々しい芝生の中庭が広がっている。その青々とした絨毯の真ん中を、まるで大蛇の這い跡のように緩やかなS字を描いて通るテラコッタの遊歩道。二人はそこを、一歩一歩踏みしめるように歩いていく。
その遊歩道を歩む夏美の姿は、やはり、この平穏な学び舎においては異質であり、同時にあまりにも鮮烈すぎた。
中庭の長椅子に腰掛け、他愛のない現世の言葉を交わしていた学生たちの動きが、ぴたりと止まる。若者たちの視線が、まるで強力な磁石に吸い寄せられるかのように、夏美の百六十八センチの肢体へと釘付けになっていく。
「——誰だ、あの娘」
「新入生かな」
「可愛いっていうか、スタイル凄くないか」
風に乗って運ばれてくるのは、戸惑いと羨望が混じり合った、剥き出しの感嘆の声であった。夏美はそれらの雑音を、ただ抱えた茶封筒の重みで遮るようにして、前を歩く警備員の制服だけを見つめ、足早に歩を進めた。
◇
やがて、二人は重厚なコンクリートの塊である3号館の校舎へと吸い込まれていった。
ひんやりとした薄暗い校舎内を、警備員と共に2階へと上がっていく。
その間も、薄暗い階段ですれ違う学生たちが、夏美のノースリーブの私服姿を認めると、一様に足を止め、ザワザワと不穏な密語を交わし合う。まるで、場違いな美しい異物が迷い込んできたかのような、そんな奇妙な地鳴りが静かな校舎に木霊していた。
2階の踊り場に辿り着いたところで、案内人の警備員が足を止め、静かに振り返った。
「五号室は、この通路の突き当たり、一番奥の部屋になりますよ」
「あ……ありがとうございました」
夏美が会釈を返すと、年配の男は満足そうに微笑み、元来た道を戻っていった。
一人、通路に取り残された夏美は、自らの靴音が妙に響く廊下を奥へと進む。
最果ての扉。そこには無機質な文字で『五号室』とだけ書かれたプレートが掲げられていた。
夏美は小さく息を整え、意を決して木製のドアを指の背でノックした。コン、コン、と乾いた音が廊下に吸い込まれていく。
しかし——部屋の奥からは、何の反応も返ってこない。ただ、静寂だけが扉の向こうに蟠っている。
聞こえなかったのだろうか。夏美は眉をひそめ、今度は先ほどよりも少し力を込め、明確な意志を持って、強めにノックを打ち据えた。
やはり、返事はない。しんと静まり返ったままである。約束の時間にはまだ少し早いのだろうか。夏美が困惑の極みに達し、佇んでいた、その時であった。
「三雲先生なら、多分、中で寝ていると思うよ」
背後から、出し抜けに声をかけられた。
驚いて振り返ると、そこにはノートを小脇に抱えた、いかにもこの大学の学生らしき若者が立っていた。若者は親切というよりは、半ば呆れたような、慣れっこになったような口調で言葉を続ける。
「あの先生、いつも眠そうにしているからさ。鍵はかかってないはずだから、勝手に開けて入ってみなよ」
学生はそれだけ言い残すと、何事もなかったかのように去っていった。
残された夏美は、不気味な『五号室』のプレートと、冷たい金属のドアノブを交互に見つめた。高橋宮司の言っていた、あの深夜の敷地で怪異を滅していた男が、本当にこの中にいるのだろうか。
微かな躊躇いの後、夏美はそっと、白く細い指先をドアノブへと掛けた。
ゆっくりと、力を込める。
カチャ
抵抗のない軽い金属音が響き、現世と異界を隔てる境界の扉は、いとも容易く、内側へと開いていった。




