第5話 密やかな依頼
二人は車から降り、先ほどまでの世俗的な会話を一旦脇に置くと、地鎮祭に使用した重い神具や祭壇を手際よく片付けた。
一通りの作業を終えた後、二人は社務所の奥にある応接室へと移動した。使い込まれた革張りのソファに、深く腰を下ろす。
高橋は室内の静寂を確かめるようにあたりを見回すと、やおら真剣な面持ちになり、人差し指を一本、自らの唇の前に立ててみせた。
「夏美ちゃん。今日はお疲れ様。……それでね、さっき車の中で話したあの『裏の清め屋』の件だが、これは他の職員には絶対に他言無用だよ。いいね」
「はい。心得ております」
夏美が厳かに頷くと、高橋は安堵したように息を漏らし、机の上に置かれていた、例の黒沢社長から預かった分厚い茶封筒へと手を伸ばした。
「それでね、話のついでに、君にちょっとしたお願いがあるのだよ」
「お願い、ですか?」
「そう。この茶封筒をね、さっき話した例の『清め屋の男』のところへ、明日、直接届けに行ってはもらえないだろうか。私は明日、どうしても外せない用事があって、動けないのだよ。君にお願いしてもいいかね」
「わ、私がですか……?」
夏美は思いがけない役目を振られ、その美しい眉をひそめて驚きの表情を浮かべた。
「そうだよ。こういう性質の資料はね、あんまり郵送や宅配で送るというわけにもいかんだろう。かといって、さっきも言った通り、極めて濃厚な『訳あり』の案件だからね。社務所で普通に働いている事務の人間に、おいそれとお願できるような仕事でもないのだよ。頼めるのは、事情を知った君だけなんだ」
高橋の、温和だが断固とした眼差しが、夏美の視線を射すくめる。現世の事務的な依頼のようでいて、その実、怪異の深淵へと足を踏み入れさせるような、妙に重苦しい要請であった。
夏美はしばし躊躇うように茶封筒を見つめていたが、やがて覚悟を決めたように小さく息を吸い込んだ。
「……分かりました。お預かりいたします」
その言葉とともに、夏美は机の上の封筒に手を伸ばした。それが、深夜の敷地で黒い蠢きを消滅させていた「あの長髪の男」への、最初の接触になるとも知らずに——。
◇
——東京という街の迷宮性は、人を狂わせるに十分である。
翌日の午後三時を少し回った頃であった。じっとりと肌を灼く陽光が、コンクリートの照り返しとなって下から這い上がってくる。
竹宮夏美は、地下鉄の数ある出口の、その一つから這い出たところで立ち往生していた。
片手には、昨夜預かったあの分厚い茶封筒。もう片方の手には、熱を帯びたスマートフォンの筐体がある。液晶画面に表示された地図アプリの矢印は、彼女の微細な戸惑いを反映するように、せわしなく方向を違えては明滅を繰り返していた。
東京へ出てきてまだ日が浅い彼女にとって、この過密な立体都市の縮尺は、どうにも感覚の網膜に馴染まない。地形を把握しようと眉をひそめるその仕草さえ、どこか危うげな情緒を醸し出していた。
今日の夏美は、昨日の厳かな巫女姿ではない。二十三歳という若さと、百六十八センチというモデル級の肢体を誇示するような、いかにも現世的な私服に身を包んでいた。涼しげなノースリーブのワンピースに、冷房対策を兼ねた薄手のカーディガンを羽織っている。
小ぶりのショルダーバッグを肩から斜めに下げ、茶封筒を大切そうに胸に抱えたその姿は、まだお気楽な女子大生と言われても誰も疑わないだろう。
だが、その無防備な華やかさが、この過密な都会においては仇となる。駅の出口で所在なげにウロウロしている美貌の娘を、行き交う現世の有象無象が放っておくはずもなかった。
すれ違う若い男が露骨に視線を送り、ネクタイを緩めたサラリーマンが歩調を緩めて振り返る。衣服の隙間から覗く白い肌や、しなやかな肢体の線が、真夏の白日の下でいや増して人目を引いてしまうのだ。
夏美はそのねっとりとした視線の網を鋭く察知し、不快そうに小さく唇を噛んだ。
人々のまとわりつく人目を縫うようにして、スマホの画面に視線を落としたまま、目的地に向かって足早に歩き出した。




