第29話 幻刀一閃
家政婦の女性が、おそるおそる壁のモニターを覗き込んだ。 画面に映し出されていたのは、激しい雨に打たれながら、まるで闇そのものが人の形をして立っているかのような、真っ黒な姿の男だった。家政婦は、喉にへばりつく声を絞り出すようにして尋ねた。
「ど、どなた様、ですか……?」
その問いに、モニターの向こうの男が静かに答えた。
「――三雲です」
男がそう名乗った瞬間、まるで夜空が引き裂かれたかのように、激しい雷の光が部屋を照らし、すぐ近くで凄まじい轟音が鳴り響いた。家全体がガタガタと震えた。 すると、先刻まで諦めていたはずの高橋が、弾かれたように立ち上がった。その目には鋭い光が戻っている。
「さあ、再開しますよ」
高橋はそう言い残すと、力強い足取りで玄関ホールへと向かった。 高橋が重い玄関の扉を開け放つと、そこには暴風雨を背負って、先ほどの黒い男――三雲が佇んでいた。 後ろから這うように付いてきた黒沢が、不審と恐怖の入り混じった目でその見知らぬ男をじっと見つめ、高橋に尋ねた。
「高橋さん……コイツは、一体誰なんだ?」
黒沢の、疑い深い視線を浴びながら、高橋は静かに、しかし重々しく答えた。
「この人は、禊祓師です」
それだけ言うと、高橋は三雲を案内し、二人の足音は階段を上って二階へと向かった。 ◇ 一番奥にある、あの不気味な部屋の前に着いたとき、三雲は無言のまま、脇に抱えていた細長い御刀袋の紐をゆっくりと解き始めた。
布の隙間から滑り出てきたのは、冬音が噂していた、あの伝説の“幻刀”だった。 刃を持たないはずのその刀は、暗闇の中で妖しく冷たい光を放っているように見えた。
「高橋さんは、ここで待っていてください」
三雲は短くそう告げると、かけていた眼鏡を外し、丁寧に胸ポケットへとしまった。その横顔には、一切の迷いもない。 三雲はドアノブに手をかけ、一気にドアを開け放った。 その瞬間、部屋の奥から、肉体の奥まで凍りつかせるような強烈な突風が吹き抜けてきた。 すると、縛り付けられている竹宮の口から、彼女の中に潜む「穢」が、再びあの濁った声で嘲うように話し出した。
「なんだ、お前は! お前らがこのワシに何をしようと、通用せんぞ! さあ、早くこのロープを解け! 貴様も八つ裂きにして殺してやるわ!」
竹宮の体は激しくのたうち回り、肉体を縛るヒモを無理やり引きちぎろうと暴れ始めた。ミシミシと嫌な音が響き、頑丈だったヒモが少しずつ、繊維を狂わせながら切れ始める。 外側からの力ではなく、内側からあふれ出る異常な力が、ヒモを一本ずつ引き裂いていくのだ。 そして――パシィッ! という鋭い音と共に、ついにヒモが千切れ飛んだ。 自由になった竹宮は、不気味にゆらりと立ち上がると、こちらを向いてニヤリと唇を歪めた。その瞬間だった。
――カーンッ!
耳の奥を突き刺すような、甲高くて清らかな音が部屋中に鳴り響いた。 三雲が、鋭く柏手を打ったのだ。 間髪入れずに三雲が指先を交差させて印を組み、地を動かすような呪文を唱え始めると、竹宮の動きがピタリと止まった。まるで、目に見えない無数の楔で地面に縫い付けられたかのように、指一本動かすことができない。いわゆる金縛りという状態だった。 三雲は静かな足取りで、身動きの取れない竹宮へと近づいていった。
「八幡神、いきますよ」
三雲がその名を呟いた刹那、彼は幻刀を鞘から引き抜き、一閃 ――竹宮の体を容赦なく切り裂いた。
「ぎゃあああああッ!」
竹宮は、この世のものとは思えない大声を上げて叫んだ。しかし、流血はない。刀が通り抜けた彼女の右脇から左肩口にかけて、眩い一筋の白い光が走り抜けたのだ。 次の瞬間、竹宮は糸が切れた人形のように、そのまま意識を失って崩れ落ちそうになった。それを、三雲が素早く長い腕でしっかりと支えた。 三雲は、ぐったりとした竹宮を優しく抱きかかえながら、彼女の耳元でそっと囁いた。
「八幡神、竹宮夏月をお守りいただき、ありがとうございました」
すると、意識を失っているはずの竹宮の体から、先ほどの化け物とは違う、優しく厳かな、しかしどこか寂しげな声が微かに響いてきた。
『……私の、大切な人を護れて本望です。これからは、貴方が見守りなさい。彼女をよろしくお願いしますよ。それでは……』
その言葉が消え入ると同時に、竹宮の細い手首に巻かれていたミサンガが、まるで役目を終えて、煙のようにそのまま静かに消え去っていった。 三雲は、静かになった竹宮をそっと胸に抱きかかえ、闇の残るその部屋をあとにした。




