第28話 憑物の嘲笑
そのとき発せられた声は、およそ竹宮夏月という、若い巫女の喉から出たものとは信じられない、暗く、濁った、男の太い地声であった。
高橋と黒沢の二人は、まるで見えない力で縛り付けられたかのように、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。超自然的な恐怖というものは、往々にして人間の思考を瞬時に凍りつかせるものである。
――そのとき、パチパチと頼りない音を立てて、突然部屋の電気が付いた。まぶしい光が闇を切り裂いた瞬間、高橋はハッと正気を取り戻した。意識を取り戻し、暴れる竹宮を捕まえようと、その体へ飛びかかる。 竹宮は獣のように怒り、ものすごい勢いで足を跳ね上げて高橋の胸を蹴りつけたが、高橋は痛みに耐えながらも、その足首を必死につかんで離さなかった。
「黒沢さん、手をッ、手を貸してくれッ!」
呼ばれた黒沢もまた、恐怖の中で、後ろから竹宮の細い体を羽交い締めにし、力任せに引きずっていった。連れて行ったのは、さっきまで黒沢の娘が座らされていた、あの不気味な椅子だった。 異常な様子に気づいた黒沢の妻、その娘、そして縮み上がっていた家政婦の女性までもが、這うようにして駆け寄り、震える手でヒモを手繰り寄せた。みんなで、まるで怪物を閉じ囲い込むかのような必死の顔つきで、竹宮の体を椅子へと縛り付けていく。
「てめえら、呪い殺してやるぞッ! 畜生ども、放せッ! 赦さねえ、絶対に放さねえぞッ!」
それは普通の人間が出せるものではない、呪いの叫びであった。竹宮夏月の体を借りた「何か」は、狂ったように身をよじらせ、耳が痛くなるような声で騒ぎ立てる。みんなは容赦なくヒモを締め上げ、ひとまず彼女を完全に動けないようにした。
高橋は乱れた息を無理やり整え、荒れた祭壇の前へと進んだ。手にした大幣は、心なしか小刻みに震えている。 低い声で、何か呪文のようなものを唱えながら、清めの塩を竹宮の頭から容赦なく振りかけた。
しかし――効果はまったくなかった。
竹宮は、ただ薄気味悪く口元を歪め、ニヤニヤとあざ笑うばかりで、痛くもかゆくもない様子だった。塩は彼女の髪から床へと虚しくこぼれ落ちるだけだった。
「宮司! どうしたんだ、全然効いていないじゃないかッ!」
黒沢の、焦りきった声が響く。 高橋はガクリと両膝を床に突き、肩を激しく上下させて、苦しそうに息を切らしていた。その顔は土のように青ざめている。 やがて、ゆっくりと体を起こすと、視線を落としたまま、かすれた声で言った。
「……黒沢さん、ちょっとトイレを貸してくれ」
言うが早いか、彼は部屋を出て行ってしまった。残された黒沢は、どうすることもできずに、ただ部屋の真ん中で立ち尽くすしかなかった。
◇
どれほどの時間が経ったろうか。 トイレから戻ってきた高橋の顔からは、一切の感情が消え失せていた。彼はうつむいたまま、低い声で黒沢に告げた。
「黒沢さん、少し下で話がある。みんなを下に連れて行ってくれ。私も、蝋燭などの火の元を片付けたら、すぐに下へ行くから」
黒沢は、その言葉の裏にある不穏な気配を感じながらも、不思議そうな顔のまま家族と家政婦を連れて、部屋を出た。 全員の足音が階段を下り、完全に聞こえなくなったのを確認すると、高橋の態度がガラリと変わった。 彼は着物のたもとから、素早く携帯電話を取り出すと、通話状態のまま、縛られて動けない竹宮の耳元へ、押し付けるようにあてがった。
受話口からは、何かこもった、かすかな、しかしおぞましい声が漏れ聞こえてくる。それが何を言っているのか、高橋にはわからなかった。やがて、その奇妙な声がふっと聞こえなくなると、高橋は冷たい手つきで電話を切り、燃えていた蝋燭の火を消して、部屋を出た。 ◇ 一階の広い玄関ホールには、黒沢の家族が寄り添うようにして集まっていた。
「とりあえず、水を一杯飲ませてください。それから、ソファに座らせてくれ」
高橋の言葉に従い、黒沢は彼と家族を連れてリビングルームへと入った。 そこにある空気は、ひどく重苦しく澱んでいた。誰も彼もが、目に見えない不気味なものに怯え、疲れ果てている。やがて、家政婦の女性が、冷たい水の入ったグラスを盆に載せて、キッチンから静かに出てきた。 高橋はその水を、かわいた喉へ一気に流し込んだ。 そして、空になったグラスを差し出し、信じられないことに、こう言った。
「――もう一杯ください」
さすがに、この一刻を争うピンチの中で、高橋があまりにも呑気で自分勝手な態度をとるため、黒沢はついに怒りを爆発させた。顔を真っ赤にして、激しい勢いで詰め寄る。
「高橋さんッ! 話って一体何なんですかッ!」
すると高橋は、表情ひとつ変えず、平然と言った。
「いや。私はただ、水が飲みたかった、という話を、したかっただけですよ」
黒沢の顔が、さらに真っ赤になった。今にも頭から火を噴き出しそうな剣幕で、怒鳴り声を浴びせる。
「あんたのところの巫女さんが取り憑かれていて、一刻も早く除霊しなければいけない時にッ! あんた、どうしてそんな呑気に水を飲んでいられるんだッ!」
高橋は、差し出された二杯目の水を、静かに、しかしやはり一気に飲み干した。そして、グラスを置くと、諦めたような声でポツリと呟いた。
「……黒沢さん。あんな悪知恵のついた、根深い穢はね、私には無理だよ」
絶望的な言葉がリビングの空気を凍らせた、まさにその瞬間だった。
――ピンポーン。 突然、静かな家の中に、インターホンの音が鳴り響いた。




