第27話 落雷の陰に嗤うモノ
庭の怪異をひとまず退けたものの、二階の窓からは、未だに人間のものとは思えぬ狂おしい咆哮が、真夏の夜の雨の中にねっとりと響き渡り続けていた——。
夏美は周囲の臭穢が霧散したのを確認すると、躊躇なく玄関を開けて家の中へと足を踏み入れた。
一歩入るや否や、二階の薄暗がりから、現世の理をねじ切るような濃厚な穢の気配がじわりと降りてくるのを五感で察知した。
彼女は白衣の袖を翻し、階段を素早く駆け上がった。
二階の奥、あの不気味な部屋に辿り着いた夏美の眼裏に映ったのは、さらに深刻さを増した現世の崩壊であった。
高橋宮司は、蒼白な顔で北側の壁際に簡易の祭壇を組み上げ、神事を執り行う仕度を必死に整えている。
部屋の奥には、過酷な因果に摩滅し、心身ともに疲れきった黒沢社長と妻が、幽霊のように力なく佇んでいた。
そしてその隣——椅子に幾重にも縛り付けられている娘は、完全に人間の理性を失い、白目をむいて狂おしくのたうち回っている。
白衣と緋袴姿の夏美を認めた瞬間、娘の肉体は、今にも己を拘束する縄を引き千切らんばかりの、人理を欠いた異常な筋力で激しく暴れ出した。
夏美の脳髄を、強烈な衝撃が襲う。
先ほど庭で対峙したあの外の臭穢などとは比較にならぬほど、一層悍ましく、一層強烈な穢の質量が、この密閉された四角い部屋の中にびっしりと充満していたのだ。
この部屋を圧殺せんとする霊気の強さに、現世の凡庸なる肉体しか持ち合わせぬ黒沢社長と妻は、もはや立っているのがやっとの有り様であった。
これ以上この場に留まれば、二人の魂の器までが容易く崩壊を来たす。
夏美は二人の衰弱を案じ、現世の領域、すなわち家の外へ出るように厳然たる口調で促した。
有象無象を退けたのち、夏美は祭壇の前に佇む高橋へと近付いて話しかけた。
「宮司、大丈夫ですか。……お体、酷く辛そうです」
額に玉のような大粒の脂汗をかき、神職の斎服を濡らしている高橋は、激しい息の乱れをどうにか抑え込もうとしていた。
温和な相好は見る影もなく強張っている。
「……大丈夫だと、口では言いたいところなのだがね。正直に言えば、極めて厳しい。……だからね、夏美ちゃん。すぐに、この不浄を断ち切るお祓いを始めるよ。手伝ってくれ」
高橋はそう言い終えるのがやっとの調子で、再び大幣を握る手に必死の質量を込めた。
水守の血脈を引く巫女を伴い、二人はついに、この家を呪う異形の深淵へと真っ直ぐに向き直った——。
◇
——祓いというのは、此岸の論理を以て彼岸の妄執を押し戻す術理であるが、その均衡が破れた瞬間、器は容易く反転する。
祭壇の前に黒沢の娘を椅子ごと移動させると、高橋は白々しい脂汗を拭いもせず、大幣を両手で固く握り締めた。
左右に烈しく振りながら、地を這うような重々しい響きで呪文を唱え始める。
娘の肉体は、その言霊を聞き始めた途端、狂おしい拒絶を示すように苦しげに身体をのたうち回らせ、縛り付けられた椅子から逃れようと人理を欠いた力で暴れ狂った。
高橋は一寸の躊躇もなく清めの塩を手にし、その不浄なる器へと投げ掛けた。
「——この穢のモノ、娘の体から出ろ!」
堂々たる叫びが室内に木霊する。
その傍らで、竹宮夏美もまた、高橋の横で呼吸を合わせるように呪文を唱え続けていた。
水守の血脈を稼働させ、家の中の至る所に蟠る穢をこの部屋に一歩たりとも寄せ付けまいと、不可視の防壁を全力で維持しているのだ。
時折、バチッと大気を引き裂くような鋭い音が部屋の外から聞こえてくるのは、彼女の展開した『矛の結界』が、侵入せんとする異形を外縁で弾き飛ばしている証左であった。
高橋が幾度も清めの塩を浴びせかけると、娘の激烈な抵抗は段々と衰えを見せ始め、白目をむいていた眼球が、現世の普通の表情へと戻っていった。
途端、娘の頭頂から黒い靄のような不気味な質量塊が漂い始め、スうッと天井に向かって立ち上ると、そのまま虚空へと霧散して消えた。
高橋と夏美はその劇的な光景を視て取り、胸の奥底から込み上げる安堵とともに、思わず声を揃えて叫んだ。
「祓った!」
椅子に縛られた娘を見ると、まるで狐に包まれたような、記憶の欠落した呆然たる表情をしてこちらを見つめている。
「私はどうして、こんなロープで縛られているの……? パパとママはどこ?」
高橋と夏美はお互いの顔を見合わせ、ようやく安堵の表情を取り戻した。
夏美が家の外へ黒沢夫妻を迎えに赴いた時には、夜の雨はいつしか激しい本降りへと変わっていた。
高橋は部屋の内で黒沢の娘の縄を丁寧に解いてやり、遅れて夏美が連れてきた黒沢夫妻は、我が子の無事な姿を見るなり泣きながら娘の部屋へ駆け寄った。
高橋が一通り黒沢社長に対し、事の顛末とこれからの心得を説明し終えると、仕上げとして、娘さんの部屋の四隅に清めの盛り塩をしばらく置いておくようにと指示を出した。
手本を見せるべく、夏美が白皿に塩を盛り、部屋の角へと配置していく。
一つ、また一つ。
二つ目の盛り塩を部屋の片隅に静かに置こうとした、まさにその刹那であった。
「——パリン」
静寂を切り裂いて、陶器の割れる乾いた不吉な音が響いた。
何事かの強烈な斥力によって、白皿が無惨に割れ、飛び散った鋭利な破片が、夏美の滑らかな頬の皮膚を微かにかすめて通り過ぎた。
夏美は驚愕のあまり息を呑み、そのまま尻もちをついて後ろへと転がった。
——突如、轟音とともに烈しい落雷が邸宅を直撃した。
家中の電気が一瞬にして掻き消え、世界は暗黒へと沈んだ。
どうやら過剰な電圧によってブレーカーが落ちたらしい。
闇の中でかろうじて現世を繋ぎ止めているのは、祭壇に置かれた蝋燭の、風に揺れる微かな炎だけであった。
「夏美ちゃん、大丈夫か!?」
暗闇の底から、高橋が焦燥の混じった声を張り上げる。
「……」
しかし、返事はない。
しんと静まり返ったままである。
その時、部屋の隅にいた黒沢社長が、喉を引き裂くような悲鳴を上げた。
「おい! 高橋宮司、あそこに……あそこに何か居るぞ!」
高橋は震える手で蝋燭を手に持ち、部屋の不気味な隅へとその薄暗い光を巡らせた。
光の先に浮かび上がったのは、暗闇の中で何かが四つん這いになり、獣のようにこちらを威嚇している、悍ましい輪郭であった。
灯りをさらに近付け、その貌をよく視認した瞬間、高橋の脳髄に戦慄が走った。
——その影は、他でもない、竹宮夏美であった。
「夏美ちゃん……? どうしたんだ?」
高橋の声が恐怖に震える。
四つん這いの夏美は、その美しい眼球を完全に反転させ、白目をむいたまま、唇の端をニヤリとだらしなく歪めて、ねっとりとした声で喋り出した。
その声音は、彼女のものでは到底なかった。
夏美の肉体を借りた異形は、白目をむいた顔をさらに醜悪に歪ませ、自らの勝利を確信したようにねっとりとした声を響かせた。
『この女の体は俺の物だ。誰にも渡しはしないぞ。……何とも気持ちがいいな、この器は。ひと目見たときから、この女の体が欲しくて堪らなかったんだ。あの無力な小娘の殻から出て、大正解だったよ』
男とも女ともつかぬその声音は、暗黒の部屋に潜む者たちの脳髄を直に揺さぶる。
『ずっと強固な結界を張り巡らせていたからね、おいそれとは近付くことも入れもしなかったけれど——皿が割れ、その集中が途切れた一瞬。やっと、その深淵に入り込めたぜ』
依代としての圧倒的な素養を持つ水守の血脈を手に入れた怪異は、現世の理をせせら笑うかのように、闇の奥で狂おしく嗤い続けていた——。




