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禊祓師(みそぎはらえし)  作者: 溶けた犬
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第26話  常夜を弾く紫電

——雨というのは、時に此岸(しがん)の汚れを洗い流すのではなく、地底に澱んだ因縁(いんねん)をねっとりと地表へ呼び戻す媒介となる。


二十分ほども走った頃であろうか。

ハンドルを握る高橋宮司(ぐうじ)が、助手席の夏美へと、低く引き締まった声をかけた。


「夏美ちゃん、そろそろ着くよ」


ワンボックスカーは、黒沢の邸宅の前で速度を落とし、徐行へと移った。

門前には五台ほども車両を収容できる広大な駐車スペースが口を開けている。

高橋は無言のまま、車体をその一画へと滑り込ませて止めた。

車外へと降り立つと、世界の境界(きょうかい)を濡らすような小雨がぽつぽつと降り始めていた。


純白の斎服(さいふく)を纏った高橋は、神具の収まった手提げ鞄と木箱を厳かに抱え、重厚な門の横に据え付けられたインターホンを押し込んだ。

しばらくの不気味な静寂ののち、スピーカーの奥から、怯えを隠しきれない年配の女性の声が漏れ聞こえてきた。


「ハ、ハイ……! どちら様ですか」


高橋が、いつもの温和な相好を消し去り、厳然たる調子で応える。


「水川神社から来ました高橋と申します。黒沢社長はご在宅ですか?」


その言葉を聞くや否や、インターホンの女性は、まるで救いの神を迎え入れるかのように門の鍵を解除し、中に入るよう即座に促した。

重い鉄門を開け、邸宅の敷地へと足を踏み入れた瞬間、高橋が白衣(びゃくえ)に緋袴(ひばかま)姿の夏美へと鋭く尋ねた。


「夏美ちゃん、どう、分かるかい?」


夏美は長く美しい睫毛を伏せ、自らの内に目覚め始めた水守の感覚を研ぎ澄ませて頷いた。


「……結構います。色々な穢(けがれ)を、この肌に感じます。——宮司(ぐうじ)、私はこの庭の四隅に清めの塩を配し、敷地全体に結界(けっかい)を張り巡らせます」


高橋は夏美の放った真っ直ぐな意志に深く頷き、自らの役割を瞬時に判断するように告げた。


「分かった。私は家に入って、黒沢さんと直接話をして状況を確認する。……よし、いこう」


言い終わるや否や、二人は此岸(しがん)の役割を果たすために、別々の境界(きょうかい)へと別れていった。


高橋が玄関の重々しい扉を開くと、家の中から先ほどインターホンで返事をした家政婦の老女が、髪を振り乱さんばかりの勢いで這い出てきた。

彼女は恐ろしげに二階の暗がりを指差し、声を震わせた。


「だ、旦那様が二階でお嬢様を抑えています! すぐに行ってください!」


高橋は手提げ鞄から清めの塩が入った小袋と、穢(けがれ)を祓(はら)う大幣を引っ掴むと、小太りの身体をしならせて小走りに二階への階段を駆け上がった。

二階へと上がると、広々とした廊下の両脇に、幾つかの部屋の扉が幽霊のように並んでいた。

一番奥の部屋のドアの前には、黒沢の妻がただならぬ気配でしゃがみ込んでいる。


高橋が薄暗い廊下の先を凝視しながら近付くと、彼女は神職の気配を敏感に察知し、悲鳴に近い声を上げた。


「宮司(ぐうじ)! 早く来てください!」


高橋は急ぎ足で廊下の突き当たりまで走り、その不気味な部屋の中を覗き込んだ。

——途端、凄絶なる現世(うつしよ)の崩壊が眼裏に飛び込んできた。


ウエイトトレーニングで鍛え上げられた大柄な筋肉の塊であるはずの黒沢が、ベッドの上で狂ったように暴れる娘を、まるで獣をねじ伏せるかのように必死に抱きかかえて抑え込んでいるのだ。

黒沢はゴルフ焼けの浅黒い顔を涙と脂汗で歪ませ、高橋を見るなり、泣き出しそうな顔で訴えた。


「高橋宮司(ぐうじ)! 娘が変なんだ! どうしたらいい!? どうしたらいいんだ!」


高橋は緊迫する室内の調度を見渡し、鋭く言い放った。


「この椅子に娘さんを結わこう。奥さん、何か身体を固定できるようなヒモはありませんか?」


しゃがみ込んでいた妻は弾かれたように立ち上がり、廊下の納戸を開けて中に飛び込んだ。

しばらくの後、縋るような手つきで細い縄の束を引っ掴み、娘の部屋へと戻ってきた。


黒沢と高橋は現世(うつしよ)の力を合わせ、人理を欠いた力で動き回る娘を強引に椅子へと座らせると、椅子ごと縄で幾重にも結びつけ、足も動かせないように厳重に縛り上げた。


◇


その頃——。

雨の降りしきる庭では、竹宮夏美がただ一人、怪異の防壁を構築していた。


小雨が白衣(びゃくえ)を濡らす中、彼女は清めの塩を白皿に分けて入れ、敷地の角へと慎重に配していった。

三つ目の塩を置き、最後の四つ目の角へと向かおうとした、まさにその刹那である。

夏美の脊髄を、あの早慶大学(そうけいだいがく)の裏庭(うらにわ)で感じたものと全く同一の、現世(うつしよ)の理を拒絶する不浄な悪寒(おかん)が鋭く走り抜けた。


(危ない——!)


脳髄(のうずい)が危険を察知した瞬間、夏美は母と祖母から授かった水守の『印』を指先で結び、目一杯に強固な結界(けっかい)を張り巡らせた。


——刹那!


「バチバチバチッ!」


空間を引き裂くような激しい紫電の破裂音とともに、夏美の肉薄するまで近付いていた目に見えぬ『穢(けがれ)のモノ』が、強烈な斥力(せきりょく)によって弾け飛んだ。

大気には、現世(うつしよ)の肉が焦げるような、ねっとりとした悍ましい屍臭(ししゅう)が狂おしく蟠(わだかま)っている。


夏美は集中を切らさず、四つ目の清めの塩を土へ置くと、そのまま玄関の前へと足早に移動した。

重厚な扉の前で細い身体を深くかがめ、薄い唇を高速で動かして竹宮家秘伝の呪文(じゅもん)を唱え始める。


すると——現世(うつしよ)の空間に異変が起きた。

先ほど配置した四隅の塩を結ぶようにして、邸宅の周囲に、目に見えぬ強固な因果(いんが)の壁が、厳かなる結界(けっかい)として立ち上がったのである。

そこは一瞬にして外界の不浄から切り離された。


しばらくの後、大気の歪みの中から、ズブズブと音を立てて、庭の地面から黒い紐のような細い異形がゆらゆらと這い出てきた。

地底に溜まった怨念(おんねん)の触手が、結界(けっかい)の隙間を潜ろうと蠢(うごめ)いているのだ。


夏美は白衣(びゃくえ)の袖の中で拳をきつく握り締め、一段と強く脳髄(のうずい)の念を込め、より峻烈(しゅんれつ)なる言霊(ことだま)を叩きつけた。


——刹那、その青白い光の質量に圧殺されるようにして、黒い蠢(うごめ)きは断滅(だんめつ)し、一瞬にして弾け飛んで消滅した。

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