第25話 不穏の急電
あとに残された高橋と夏美の二人は、もはや言葉を交わす気力すら失い、無言のまま実用本位のワンボックスカーへと乗り込んだ。
セルモーターが回り、エンジンが唸りを上げる。不穏な因果の予兆をその車内にねっとりと蟠らせたまま、二人の乗った車は、静まり返った水川神社へと帰路を急いだ。
バックミラーの向こうで、斜陽に灼かれた都会の迷宮が、黒々とその輪郭を融解させていた——。
——沈黙というのは、時にどんな大層な言霊よりも不穏に、その場の命運を物語るものだ。
神社に戻った高橋と夏美は、それぞれの所用が残っていたため、此岸の日常へと戻るように別々の棟に向かって別れた。
夜になり、拝殿の裏手に位置する母屋で食事の席となった。住み込みで働いている者が竹宮を含めて三人。それに高橋と妻の志保、さらに男のお子さんの三人が加わって、都合六人で大きなテーブルを囲んで食事を摂っている。
普段の食事中であれば、いつも他愛のない冗談を言っては一同を笑わせている高橋宮司であったが、今宵はただ淡々と、機械的に箸を動かすのみであった。その陰気な沈黙に引きずられるように、食卓は水を打ったように静まり返っている。高橋は誰よりも早く食事を終えると、そそくさと食卓を立って奥の自室に戻っていった。
妻が夫のいつもと違う、焦燥を察して竹宮を見た。夏美は妻に小さく頷いて席を立ち、高橋の後を追った。高橋の部屋の前に着くと、現世を隔絶するように障子戸は硬く閉められている。
夏美は障子を静かにノックした。
「竹宮です。宮司、大丈夫ですか?」
しばらくののち、中から高橋が返事をする。
「……入っていいよ」
障子を開けて部屋に入ると、高橋は携帯電話を手にしたまま、薄暗い部屋の中で佇んでいた。
「これから黒沢さんの所に、断りの電話を入れようと思っているんだ。冬音さんの警告通り、あれは我々が関わっていい因果ではないからね」
夏美もまた、その冷徹な判断に同意するように深く頷いた。高橋が諦念を込めて電話番号を押そうとした、まさにその時であった。
ピロリロリ、ピロリロリ……と、唐突に現世の静寂を切り裂いて、着信メロディの電子音が室内に鳴り響いた。
高橋は驚いて液晶に表示された着信の名前を見た。相手は——他でもない「黒沢」からであった。高橋は夏美にもそれを見せて、何事かの不穏な予兆を覚えながら、急いで通話ボタンを押した。
「もしもし、高橋です。黒沢さん? どうしたの?……ちょっと聞き取りづらい。な、なに?」
電話の向こうの黒沢は、完全に理性を失い、相当慌てているようだった。受話器から漏れ聞こえてくる狂おしい悲鳴のような声は、傍らに立つ夏美の鼓膜にさえ明瞭に届いた。
「なに? 娘さんに……。分かった、とりあえず今から行くから、ちょっと待ってて」
高橋は一方的に通話を切った。そして、顔面を蒼白に強張らせながら夏美に話し出す。
「黒沢さんの家が、大変な事になっているらしい! 娘さんが何かに取り憑かれたみたいに暴れていて、大の大人が数人がかりでも抑えられないみたいだ。助けを求めている。私に何が出来るかわからないが、私だって祓いの呪文くらいは知っている。とりあえず、行ってみるよ」
高橋が急ぎ部屋から出ようとすると、いつの間にか入り口に妻の志保が立っていた。高橋は妻に告げる。
「これから黒沢さんの所に行ってくる。済まないが、すぐに斎服を用意してくれ。それから……」
と言いかけた所で、後ろから夏美が遮るように尋ねた。
「私に、何かお手伝いすることはありますか?」
高橋は振り返り、その温和な目を厳しく据わらせて指示を出す。
「地鎮祭で使う神具の小物類と、簡単な祭壇が組める道具を車に積んでくれないか。それから——」
高橋はそこでひと呼吸おいて、
「夏美ちゃんも、巫女の格好に着替えてくれるか?」
と、重々しく頼んだ。水守の血脈に眠る『矛』の術理を、今ここで必要としているのだ。夏美は一瞬の歪みもない毅然とした態度で、
「分かりました」
とだけ答えた。
十分ほどが経過したのち、高橋が母屋から出てきた。その身に纏っているのは、現世の穢を一切寄せ付けぬ純白の斎服である。
一方、夏美は白衣に緋袴の厳かなる巫女姿で、ワンボックスカーの後部座席に手際よく神事の荷物を積み込んでいるところだった。黒沢の家までの複雑な抜け道は、この地で長く生きてきた高橋がよく知っているので、今日の運転は高橋が行う。
二人が乗り込み、セルモーターが唸りを上げると、神社の駐車場からクルマが猛然と走り出した。バックミラーの向こうで、静まり返った鎮守の森が、夜の暗黒の中に小さく遠ざかっていく——。




