第24話 十年の因果、禁忌の刀
3号館の重厚なコンクリートの出入口から、高橋宮司と夏美、そして竹宮冬音の三人が地上へ姿を現した。
陽が斜めに差す、真夏の夕七つの出来事であった。
長く伸びた彼らの歪んだ影が、アスファルトの上に不気味な足跡のように引かれている。
その広場へと差し掛かったあたりで、夏美は胸の奥に澱んでいた疑問を堪えきれず、歩調を緩めて祖母へと問いかけた。
「……おばあちゃん。三雲さんが除霊を頑なに拒む理由を、おばあちゃんは最初から知っている風だったけれど、何か、過去の因縁を知っているの?」
冬音はその問いかけに、歩みをぴたりと止めた。
そして、何かおどろおどろしい過去の記憶を脳髄の底から手繰り寄せるようにして、静かにその老いた目を閉じた。
しばらくの不気味な沈黙の後、再びその眼裏を開くと、重々しく言葉を紡ぎ始めた。
「……そうね。貴女たちには、あらかじめ話しておいた方がいいのかもしれないわね」
三人は広場の傍らに佇む、使い古された長椅子へと腰を下ろした。
傾きかけた西日を浴びて、白レースのブラウスを揺らす夏美を挟むようにして、冬音の低く掠れた声音が、十年前の因果を紐解き始める。
「あれは、もう十年の刻限が流れる前のことになるわね。京ちゃんがまだ大学へ通いながら、神職の見習い、言わば修業の身として奉職していた頃の話だよ。……それも、水守大社でのことさ」
その神域の名を聞いた瞬間、夏美は弾かれたように長い睫毛を震わせ、驚愕の声を上げた。
「えっ……三雲さんって、水守大社にいたことがあったの」
「高橋さんも、その辺りの事情はかねがね聞き及んでいますよね」
冬音が丸眼鏡の奥の目を向けると、高橋宮司は腕を組んだまま、静かに首を縦に振った。
「ええ、聞いております。私の後輩にあたりますね。後輩と言っても、私が水守で修業をしていた時分には、まだ京さんは居ませんでしたがね。何しろ、歳が違いますから」
夏美の知らない、現世の裏側の情報が次々と剥き出しになっていく。
冬音は遠い虚空を見据えたまま、ねっとりと話を続けた。
「神職の見習いとして修業に励んでいた当時、京ちゃんはある一人の女性と出会ったのさ。一緒に立ち働いていた巫女の娘でね。おそらくは、日々の相談ごとや、この生業、つまり神に仕える者としての心構えといった深い術理を、お互いに語り合う仲だったんじゃないかしら。……いわゆる、戦友みたいなものね」
老女の語る言葉の質量が、じわりと空気の温度を下げていく。
「ある時、京ちゃんはその彼女から、ひとつの不穏な相談を受けた。自分が住んでいるアパートの部屋に、何か変なモノ、現世の理を歪めるような陰気を感じるから、一度、部屋を視てもらえないだろうかと、彼女から懇願されたのさ。……その当時からね、京ちゃんの持つ霊力、いわば不浄を嗅ぎ分ける『手の嗅覚』というのは、神社の中でも群を抜いて有名だった。だから、彼女のアパートへ近付いただけで、京ちゃんにはその異様な雰囲気がすべて看破できたらしく、一刻も早く除霊をしなければ手遅れになる、そんな風に焦燥を覚えたみたいだね」
冬音は深く、重苦しい溜息をひとつ置くと、ついに悲劇の核心へと触れた。
「陰湿にまとわりつく因果の如く、穢はもう彼女の肉体の深淵、脳髄の奥底にまで入り込んでしまっていた。焦った京ちゃんは、神社においては厳然たる禁忌、犯してはならぬ法とされていた『除霊』を、彼女を救わんがために独断で執行してしまったのさ。……その除霊の際、京ちゃんは『幻刀』という名の刀を用いたらしいわ」
「幻刀……?」
夏美が呟くと、冬音は静かに肯いた。
「その刀は、東北の三雲家に代々受け継がれてきた神具らしく、お父様から直々に受け継いだそうだね。その刀の最大の特徴は、柄がついているだけで、肝心の刃身、鉄の刃が存在しないということさ。使い手の放つ圧倒的な霊力そのものを刃と成し、目に見えぬ穢を両断することのできる刀らしい。……私も実物をこの目で直視したことはないのだけれどね。京ちゃんはその幻刀を以て、彼女の中に巣食っていた不浄なる穢を、見事に斬って落とした」
老女の声が、ひときわ暗く沈み込む。
斜めから差し込む夕日の赤が、まるでかつての鮮血のようにその場を染めていた。
「そこまでは良かったのだけれどね。……哀しいかな、京ちゃんはその穢と一緒に、彼女の『心』、すなわち魂の根幹までをも一緒に斬り裂いてしまったのだよ」
「えっ……」
「その後、事態を知った私たち巫女の仲間や宮司たちが、どうにか彼女の心を取り戻そうと、あらゆる神事や秘術を尽くしたのだけれど……。彼女が再び、現世の光の中に目を開けることはなかったわ。……正式な手順を踏まぬその行為により、京ちゃんは神社では絶対の禁忌とされている除霊を勝手に行った咎によって、神職の任を解かれ、その籍を剥奪されてしまったのさ」
すべては、十年前の過ちが生んだ、救いのない因果の結末であった。
三雲がなぜ「除霊はやらない」とあの冷徹な真顔で拒絶したのか、その理由をすべて理解した夏美は、慄然としながらも、消え入りそうな声で尋ねた。
「……その彼女は、今、どうしているの?」
夏美の問いかけは、斜陽に赤く染まる真夏の広場に、ただ物悲しく響き渡るだけであった——。
冬音は、斜めに差す西日の眩しさに抗うようにして、その老いた顔を僅かに歪ませた。
「私もね、最近の彼女の状況を詳しくは知らないのだけれど——ずっと、病院に入っているみたいだよ」
その言葉の質量は、夕暮れ時の広場に、ねっとりとした冷気を伴って沈殿していった。
高橋宮司は深く、重苦しい溜息とともに、小さく呟いた。
「……京さんに、そんなことがあったのか。私もそこまでは知らなかった」
「そうなの。それでね、あの水守大社では、この一件は厳然たる禁忌、いわば触れてはならぬ法とされてね。自然に誰も話さなくなったのよ。だから、今ではほとんどの人がこの事を知らないのさ。夏美もね、水守で巫女をしていたけれど、一度だって聞いたことはなかったでしょう」
夏美はただ、言葉もなく、静かに首を縦に振った。
白レースのブラウスの胸元で、きつく拳を握りしめている。
「自責の念に駆られ、己に呪縛を課すようにして、除霊をおこなう事を禁じたのね。これがね、京ちゃんが除霊を頑なにやらない理由なのよ」
老女の語る十年前の悲劇を聞き終えると、三人は示し合わせたように席を立ち、受付窓口のある無機質な校舎の方へと再び歩み出し始めた。
受付の窓口で、胸にピンで留めていた「来場者」のプラスチックプレートを無言で返却する。
現世の事務的な手続きを終えた三人は、そのままクルマを止めた駐車場の空間へと向かった。
アスファルトの照り返しが、夕方の冷気に押されて妙な匂いを放っている。
高橋が、去りゆく老女の背中に向けて尋ねた。
「冬音さんは、これからどうなさいますか?クルマで駅までお送りしましょうか」
「ありがとう。大丈夫よ。少し、この都会の街中を散歩しながら帰るわね」
そう答えた祖母の横顔を見て、夏美は、自らの内に蟠る寂しさを隠しきれずに、ひどく暗い表情を浮かべた。
冬音は、そんな孫の様子を見透かしたように、ねっとりと話を続けた。
「それより、高橋さん。どうするの、あの黒沢社長の除霊は。誰か、他に当てはあるのですか」
「……神社に帰って、もう一度思考を巡らせてみますよ」
その曖昧な現世の調子を聞いて、冬音は今度は夏美へと、その鋭い目を向けた。
「アナタも宮司に協力して、一緒に考えなさい。……高橋さん、老婆心ながらね、私の個人的な意見、いわばこちらの世界の老婆の戯言として言うわね。今回の件は——断りなさい」
言い終わるや否や、竹宮冬音は、まるで最初から現世の幻であったかのように、校舎を出て夕暮れの街並みの中へと吸い込まれるように消えていった。




