第23話 神域の影と拒絶
——現世の境界を越えるとき、人は往々にして過去の因縁がそこら中に蟠っている事実を忘却するものだ。
三雲に電話をしたら午前中は講義があるが午後から休講なので会える、ということで高橋と竹宮はクルマで三雲の大学に午後三時に着いた。
今日の竹宮夏美は、洗練されたお出かけの私服を纏っていた。袖に柔らかな白のレースをあしらった薄グレーのブラウスに、気品ある深い紺色のロングスカートを合わせている。髪は綺麗に梳き下ろされ、肩からは小ぶりの上品なハンドバッグを斜めに下げている。およそ神域の陰気とはかけ離れた、華やかな現世の女性としての佇まいである。
ふたりはクルマから降りると受付窓口に向かい記帳して校舎内に入った。夏美がこの校舎に来たのは三度目、その中で今日は一番訪ねたくなかった。この思いは高橋も同じであった。重い足取りのふたりは三雲の準備室に向かって歩いていた。準備室の前に着くと、高橋がドアをノックする。夏美はこのときだけは部屋の中から返事がないことを願った。
「はい、開いています」
中から三雲の声が聞こえた。高橋は深呼吸をひとつするとドアのノブに手をかけてドアを開けた。
部屋の中では事前にふたりが来るのを知っていた三雲が珈琲を淹れている。ソファまわりや部屋の中が少し片付けてある。髪型も寝癖は無くきれいに後ろで一本に束ねてある。そして何よりソファに先客が座っている。和服姿の年配と思われる女性が向こう向きに座っている。髪は綺麗に纏めてあり後ろ姿ではあるが気品を感じる佇まいである。
高橋と夏美は予期せぬ光景に一瞬声が出なかった。すると三雲が話し出した。
「いらっしゃい。おふたりさん。待ってましたよ」
その時、夏美が、
「おばあちゃん?」
と驚きながら問いかけた。高橋も女性を覗き込んだ。初老の女性がゆっくりこちらを振り向くと竹宮冬音、そう竹宮夏美の祖母が三雲の部屋に来ていた。
「なんでおばあちゃんが三雲さんの部屋にいるの?」
夏美が驚きながら問いかける。冬音は、答える。
「あら、何いってるの?京ちゃんとは私の方が付き合い長いのよ。ね、京ちゃん。それに先日、孫が世話になったのに挨拶もしない無作法はないでしょ」
夏美は少し顔を赤くして、
「でも、事前に私に知らせてくれてもいいでしょ、おばあちゃん」
冬音はさらりと答える。
「どうして私の大切な人に会いに来るのにアナタに言わなきゃいけないの」
夏美はいい返す言葉がなかった。ふたりの掛け合いに、
「まあまあ、冗談もその辺でふたりとも立ってないでソファに座って」
と三雲が割って入った。高橋と夏美に珈琲を出すと三雲も椅子に腰かけた。
「地鎮祭は無事に済みましたか?」
三雲は夏美に問いかけた。夏美は自分に質問されていることを知り慌てて答えた。
「あっ、はい。無事終わりました。そしてこれもらいました」
夏美は自分の手を前に差し出し、白のレースの袖口から覗く手首に結わいている、あの美しい紫色の糸で編まれたミサンガのようなブレスレットを三雲に見せた——。
三雲はのそりと長身を折り、夏美の手をそっと握り締めた。白のレース袖から覗く手首の、あの紫色の紐へと丸眼鏡の奥の目を近付け、凝視する。
「……これは思いがよく編み込まれた紐だね。大切にした方がいいよ」
三雲が細い指を離すと、今度は隣の冬音が流れるような手つきで夏美の手を握った。老女はその不気味な紫の質量を眺めながら、何事かを悉く見透かしたような、ねっとりとした含み笑いをその皺深い顔に浮かべた。夏美はその侵しがたい気配に身震いし、サッと手を引っ込めた。
三雲は椅子に深く腰掛け直すと、事務的な、しかしどこか鋭い口調で語りかけた。
「そういえば、高橋さん。何か話があると言っていたけれど、話って何ですか?」
突然の三雲の問いかけに、高橋宮司はあからさまに慌てた。道中の車内で色々と想定外の状況を予測し、話すタイミングや順番などを事前に脳内で組み立てていたはずだった。しかし、水守の長たる冬音の出現によってその論理はすべて粉砕され、いきなり本題に入らざるを得なくなったのである。高橋は深く、重苦しい深呼吸をひとつ置くと、意を決して話し出した。
「実はね……とても頼みづらい話なのだが、いつも例の地鎮祭を依頼してくる黒沢社長さんの件なんだけど、彼の家に何やら不吉なモノが取り憑いていて、京さんに『除霊』をやってもらいたい……」
その不浄なる言葉が放たれた瞬間、三雲の表情が、劇的に変質した。あの深夜の敷地で見せたような、冷徹極まりない真顔がそこへ戻ろうとした、まさにその刹那である。
「高橋さん、駄目よ!京ちゃんに除霊は!」
隣に座る冬音が、峻烈な言霊を以て突然話に割り込んできた。その老女の凄まじい剣幕に、高橋は言葉を失い、三雲さえも不意を突かれて驚いたように丸眼鏡の奥の目を僅かに見開いた。冬音は怒りながら、言葉の質量をさらに重く沈めていく。
「高橋さん、貴方も京ちゃんが除霊をやらないのを知っているでしょう。京ちゃんがアナタの話しを断りづらいことも知っていて、しかも夏美まで連れてきてこんな話をするのは、とても不誠実なことです」
冬音の突然の糾弾に、高橋はただ呆然と驚くばかりであった。見かねた夏美が、二人の境界線を繋ぎ止めようと割って入る。
「おばあちゃん、違うのよ。これには深い事情があって……」
「アナタは黙ってなさい!」
言いかけた言葉を、冬音の落とした烈しい雷が、容赦なくねじ伏せた。部屋の空気が、一瞬にして完全に凍りついた。先ほどまで現世の和やかな珈琲の香りに満ちていた空間が、まるで嘘であったかのように、底なしの陰気が蟠る死の静寂へと反転してしまったのだ。誰も言葉を発することのできない混濁の底から、三雲の神経質な声が、静かに響いた。
「何か……私が言おうとしたことを、冬音さんに全部言われてしまったな。冬音さん、私のために有難う。……高橋さん、済まないが、やはり私は除霊はやりたくないんだ。ここで詳しくその因果を説明することはできないが、やはり私には、除霊という行為そのものに対する強い抵抗がある。祓い屋の筋に知り合いがいれば紹介したいのだが、申し訳ない。今回の話しはね、他をあたってくれないか」
男の放った静かな、しかし厳然たる拒絶の言葉が、白々しい五号室の空気の底へと沈んでいった。黒沢社長を囲む怪異の因縁を前にして、現世の境界線は、再び硬く閉ざされようとしていた——。
数の上では、高橋と夏美、三雲と冬音という二対二の均等な現世の構図であったはずなのだ。しかし、冬音の放った峻烈な言霊による圧殺の前に、高橋の脳髄には、まるで百対二という圧倒的な戦力差で一方的に蹂躙されたかのような、無惨な敗北の印象しか残らなかった。此岸の論理は悉く融解し、もはやこの過酷な案件を三雲に懇願するための、いかなる材料も見当たらなかったのである。
高橋は、小太りの肩をがっくりと落とし、消沈しきった様子で声を絞り出した。
「……京さん、済まなかった。この話しは、どうか忘れてくれ」
その隣で、白レースのブラウスを身に纏った竹宮夏美もまた、自らの不甲斐なさと宿命の重さに打ちひしがれ、宮司と判で押したように同じ、暗く、重苦しい表情を浮かべて俯いていた。
剥き出しの怪異が蠢く夜の敷地とは異なり、この五号室には、残酷なまでに柔らかな午後の日差しが白々しく入り込んでいた。開け放たれた窓の向こうからは、現世の平穏を謳歌する学生たちの他愛のない話し声が、微かに、しかし確かに聞こえてくる——。
——秘密というのは、時に白日の下に晒されることで、よりねっとりとした呪縛の質量を帯びるものだ。




