第22話 社長の悲鳴
神社組の面々が、用意された二台のワンボックスカーにそれぞれ乗り込み、帰路に就こうとエンジンを始動させた、まさにその時であった。
不動産会社社長の黒沢が、その巨体を揺らしながら、高橋宮司の乗っているクルマの助手席側へと猛然と走ってきた。
高橋は不審に思いながらも、クルマの窓を少しだけ開けて対応した。
「宮司、済みません。——今日の夜、少しお時間はありますでしょうか。実は、少々切羽詰まった相談がございまして、水川神社までお伺いしたいのですが……」
黒沢の口調は、いつもの現世的な強欲や下卑た緩みを完全に欠いており、何時にない神妙な、あるいは何事かの恐怖に怯えるかのような面持ちであった。
高橋は手帳の余白を脳内でちょっとばかり思い浮かべて考え込んだが、やがて静かに首を縦に振って了承した。
「分かりました。8時からはどうでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、黒沢の浅黒い顔が、まるで憑き物が一時的に落ちたかのように、パッと晴れ晴れとした安堵に染まった。
「宮司、有り難う。それじゃあ、8時に行きますから」
短い交信が終わり、窓が閉められると、高橋たちの乗ったクルマは静かに走り出した。
バックミラーの向こうで、何事かの不穏な因果を背負った黒沢の影が、陽炎の立つ敷地の中に、ぽつりと小さく取り残されていった——。
◇
走行する車内で、夏美が隣の高橋宮司に話しかけた。
「黒沢社長の話って何ですかね?」
高橋は首をかしげて応える。
「さあね、何だろうね。いつもの案件だったらそんなにかしこまる事もないんだが、彼ちょっとおかしかったね。なんか嫌な感じがするな」
クルマは、現世の喧騒を切り裂くようにして、一路神社に向かって走った。
——怪異というのは、世俗の権力を笠に着た人間の傲慢さを、いとも容易く融解させる。
夜になり、水川神社は静まり返っていた。
鎮守の森が放つねっとりとした陰気が敷地を包み込む中、神社の駐車場に突如として凶凶しいヘッドライトの光が突き刺さった。
滑り込んできたのは、威圧感を絵に描いたような黒のレクサスであった。
駐車スペースにバックで止められると、車輪の音が止むのと同時に、扉が開いて黒沢が降りてきた。
昼間の精悍さはどこへ失せたのか、黒沢は小走りに神社の境内の石段を駆け上がり、まるで何かに追われるようにして社務所のドアを激しくノックした。
「すいませーん。黒沢です」
現世の秩序を揺るがすような悲痛な叫びに応じるように、社務所のドアが開いた。
高橋宮司が顔を覗かせる。
「黒沢社長、どうも」
高橋は怯える巨体を社務所の中へと招き入れ、応接室のソファへと案内した。
二人は、冷たい硝子テーブルを挟んで座った。
社務所の中には、本来であれば高橋と黒沢の二人きりであるはずだった。
そこへ、奥の給湯室から、盆にお茶を載せた竹宮夏美が静かに足を踏み入れた。
今日の業務が終了している彼女は、白の半袖のTシャツに、穿き込まれた色落ちの良いブルーのデニムパンツという、極めて無防備でラフな部屋着の格好であった。
髪は後ろで無造作なポニーテールに結わえられ、およそ巫女の厳かさとはかけ離れた日常の佇まいである。
二人の前に手際よくお茶を差し出すと、夏美は現世の境界線を引くように、少し離れた事務机の椅子に腰を下ろした。
黒沢は他人に己の醜態を晒すのが気まずそうに、夏美に視線を向けぬまま、高橋に向けて人払いをするように顎をしゃくってみせた。
だが、高橋はその意図に気づきながらも、穏やかに首を振った。
「彼女?彼女なら大丈夫ですよ」
高橋の有無を言わせぬ調子に、黒沢は何やら不満げな表情を浮かべたが、もはや猶予は残されていなかったのだろう。
堰を切ったように、ねっとりとした狂おしい言葉を吐き出し始めた。
「こんな話し、一体どこの誰に相談したらいいのか分かんないんだけどさ……。とりあえず高橋さんなら話せるかな、と思ったんだ。……実はね、俺の家に、幽霊が出たんだよ」
男の浅黒い顔が、恐怖によって奇妙に白波立っている。
「はじめはね、妻と娘がそんなことを言い出したのを、俺は鼻で笑って聞いていたんだ。ほら、俺だって俗に言う『視える』体質だからね。その俺が何も感じないんだから、そんなモノは妄想の類だ、いないよ、と突っぱねていたんだ。実際に俺の家にはいないんだよそういった変なモノは……そしたらよ、この間の夜、俺も直に視ちまったんだよ!」
黒沢は金色の高級時計を嵌めた手首を激しく震わせ、自らの脳髄の記憶をまさぐるように語り続ける。
「夜中にふと目が覚めて、トイレに起きて用を足したんだ。それから部屋に帰ろうかと薄暗い廊下を歩いていたら、前方にさ、ボーとした、青白いヒトのような輪郭をしたモノが、ふらふらと廊下を歩いているのが視えた。はじめは夜更かしした娘かと思って、声をかけたんだよ。……そしたらよ、その青白い異形が、狂ったような速度で俺に向かって走ってきてさ!俺はなんか、ボワァーとした冷たい風みたいな質量塊に突き飛ばされて、床にひっくり返って、そのまま気絶しちまったんだ」
男の放つ言葉は、もはや現世の商談のそれではない。
怪異の深淵に触れた者の、剥き出しの悲鳴であった。
「朝になって、起きてきたカミさんに揺り起こされて、ようやく目が覚めたんだよ。……もうそれ以来、ほとんど毎日出るんだよ!俺は人の家に幽霊が出るのは、いくら出てもらっても構わねと思っているけど、自分の家に出るのだけは勘弁してくれ!頼むよ宮司、どうにかしてくれよ。金なら、金なら幾らでも出すからさ!」
黒沢の告白は止まらなかった。
そのくらい、彼の精神は限界まで切迫し、崩壊しかけているのだろう。
高橋宮司は、その言葉の切れ目を鋭く捉え、穏やかに割り込んだ。
「兎に角、黒沢さん、冷たいお茶でも飲んで一息つきなさい。まあ、大筋の事情は分かりました。……黒沢さん、それは本当に災難でしたね。ですがね、ウチは神社なのです。厄除けや、土地の穢れを祓うお祓いは執り行いますが、いわゆる『除霊』のような、悪霊退治を目的としたおどろおどろしい儀式というのは、神道の術理には存在しないんですよ」
すると、黒沢はソファから身を乗り出し、子供のように言い返した。
「だけどよ、現に地鎮祭の前には、裏で何かを祓っているじゃないか!悪霊みたいなモノをさ!あれをウチの屋敷でもやってくれよ!」
大柄な筋肉の塊のような男が、今や半分泣きべそをかいている。
その無様な現世の崩壊を前にして、高橋と夏美は、言葉もなく互いの顔を見合わせた。
宮司の困惑しきった表情を見て、夏美もまた、Tシャツの襟元に手をやりながら困ったように眉をひそめるしかなかった。
高橋は小さく咳払いを置き、厳然たる境界線を引くように告げた。
「黒沢さん、とりあえず今日の所は、一旦お宅へお帰りなさい。追って、こちらの都合が調い次第、電話を入れますから」
黒沢は、まるで死刑宣告でも受けたかのようにがっくりと肩を落とし、社務所の空間から這い出ていった。
去り際に、
「本当に頼むよ……」
と、力無く呟いたその声は、夜の闇に虚しく吸い込まれて消えた。
さっきまで社務所の中を満たしていた、五月蠅いほどの現世の恐怖が嘘のように消え去り、静寂が戻ってきた。
高橋宮司が、深く溜息を吐き出して話し出した。
「黒沢さんがあんなに人目もはばからないで取り乱す姿、私は初めて見たよ。途中から、夏美ちゃんがそこにいることすら、完全に忘れていたようだったな」
夏美は細身のデニムの膝を少し組み替え、静かに頷いて問いかけた。
「高橋宮司……どうするのですか。黒沢社長の、あのお願いは」
腕組みをして考えていた高橋は、小太りの身体をソファに沈めたまま、ポツリと呟いた。
「あの社長にはね、日頃から神社の維持において色々と世話にもなっているから、どうにかしてあげたいのは山々なのだがね。……幽霊退治ねぇ。京さんに頼めば、あるいは、とも思うのだが……」
高橋はそこで、自ら言葉を打ち切るように首をヨコに振った。
「いや、あの人は——絶対にやらないなぁ」
その確信に満ちた否定を聞いて、夏美は前々からの疑問を尋ねた。
「三雲先生って、どうしてそこまで『除霊』という行為を嫌がるのですか?前に大学の部屋でそんな話しになった時、もの凄く冷徹な目で睨まれてしまって、それ以上聞くことができなかったのです」
高橋は首をかしげ、遠い天井を見上げるようにして目を細めた。
「私もね、あんまり詳しい因果までは知らないのだが……とにかく京さんはね、その手の『除霊』という言葉そのものを、酷く嫌悪するんだよなぁ。……まあ、明日、ダメもとで京さんの所にお願いに行ってみるかね。現世の理を超えたこんな事態を頼めるのは、やはりあの人しかいないからなぁ……」
宮司の呟きは、白々しい社務所の空気の底へと沈んでいった。
明日、再びあの大学の迷宮へと赴く予兆を孕みながら、神社の夜はねっとりと更けていく——。




