第21話 地鎮祭の朝
——白日の下に晒された世界というのは、時に夜の暗黒よりも酷にその本質を露にするものだ。
三日ぶりのことであった。
竹宮夏美は、あの凄絶なる「裏の清め」を執行した因縁の敷地へと再びその足を踏み入れた。
前回訪れた折は丑三つ時の漆黒に包まれていたがゆえに、朝の光に照らし出されたその風景は、まるで全く異なる異空間へ迷い込んでしまったかのような、奇妙な錯覚を彼女の脳髄に抱かせた。
何より、土地の孕む大気の質感が、以前のあのねっとりとした陰気とは根底から異なっていることが、自覚の芽生え始めた夏美の五感にはっきりと視て取れた。
白日の下に現れた敷地を改めて見回し、これほどまでに広大な土地であったのかと、彼女は内心で驚愕を禁じ得なかった。
朝の六時。
まだ街が本格的な覚醒を迎える前の時間である。
現場には、高橋宮司と夏美、そして若手の神職が数名。
さらに不動産会社の営業マン・丹羽をはじめとする面々と、現場の職人たちが、間近に迫った地鎮祭の準備に追われていた。
紅白の幕を張り巡らせ、仮設のテントを組み上げ、折り畳み式のパイプ椅子を並べる。
その一切の手際は、丹羽を中心とする不動産会社側の人間が、世俗的な慌動の内に執り行っていた。
そこへ、一段と強い現世の質量を伴って、あの不動産会社社長・黒沢一郎が姿を現した。
今日の黒沢もまた、その肉体の精悍さをこれでもかと誇示していた。
丹羽のそれとは比較にならぬほど、ゴルフ焼けによって真っ黒に灼かれた風貌は、ただ手首の先だけが不自然なほど白い。
その白い肌の上で、金色の高級時計と水晶のブレスレットが、朝の陽光を反射してキラキラと下卑た輝きを放っている。
七時を回ったあたりで、地鎮祭の物理的な仕度はすべて調った。
通常の地鎮祭であれば立ち会うはずの、この物件を購入した家族の姿は、なぜか今日はそこにはない。
黒沢の目論見では、この広大な敷地を五つに割き、建売住宅として現世の市場へ放流する予定なのだという。
まさに欲望の容れ物を量産せんとする、世俗の論理そのものであった。
設営されたテントの内で休憩していた高橋宮司の元へ、黒沢がねっとりとした歩調で近付いてきた。
「宮司、おはようございます。今日はよろしくお願いいたします。……おや、そちらの美しいお嬢さんは、夏美ちゃんだったよね?今日も宜しくね」
大柄な体躯から放たれる言葉には、神職への敬意など微塵も狂ってはいない。
一見すれば、ただ俗世の欲望だけが剥き出しになって大気を汚しているかのようであった。
しかし、その浅黒い顔をよく視れば、目の下にはどす黒い隈がべっとりと張り付いている。
日焼けで黒い顔が、まるで青白く見えるほど血の気が引いていた。
夏美は胸の奥に蟠る強烈な違和感を抑え込み、ただ物静かに頭を下げ、厳かな会釈を返した。
黒沢は夏美から視線を外すと、先夜、巨大な黒い球体が出現した敷地の中心部へと眼を向けた。
「そういえば宮司、流石ですね。……もう全然、いなくなりましたね。この土地、随分と厄介だったでしょう」
高橋宮司は、その言葉の裏にある真実をすべて知っている風に、答える訳でもなく、ただ曖昧な苦笑を浮かべるに留めた。
「宮司、それじゃあ三十分から、地鎮祭をはじめますか」
言い終わるや否や、黒沢はテントの空間から這い出て、外に控える丹羽たち営業マンへと、何事か大声で指示を飛ばし始めた。
テントの中に残された高橋が、声を潜めて夏美に語りかけた。
「夏美ちゃん、強烈だったでしょう、あの黒沢さんというのは」
「え、ええ……。そうですね。私、あの人から、何か変な空気を感じました」
夏美が小声で胸中の違和感を吐露すると、高橋は周囲の雑音を警戒するようにして、さらに声を低めて応えた。
「彼にはね、あんまり良くないモノが憑いているみたいなんだよ。以前、京さんが話してくれたんだがね。……でも、その澱んだモノのせいで、彼にはかえってその手の勘が働いているらしいんだね。曰く付き物件と、そうでない物件の境界が、直感的に判るらしい。だから、さっきみたいに、悪しきモノが完全に消え去ったという事実も、彼には視て取れるのだよ」
高橋はパイプ椅子からその小太りの身体を立ち上げながら、現世の奇妙な因果を説明し終えた。
「さあ、夏美ちゃん。地鎮祭をはじめようか」
厳かなる祝詞の声が、朝の住宅街に響き渡る。
何事の滞りもなく、地鎮祭は粛々と終了した。
式が終わるや否や、周辺に張り巡らされていた紅白の幕やパイプ椅子などの神具は、黒沢の容赦のない指示の下、丹羽をはじめとする不動産会社の人間たちの手によって、まるで統制された軍隊の如き異常な手際で瞬く間に片付けられていった。
現世の喧騒が遠のいていく中、夏美は一人、誰もいなくなった祭壇の跡地に向かって静かに歩き出した。
その細い手には、鍬入れの儀式で使用した木製の鍬が握り締められている。
夏美は周囲に気配のないことを確かめると、祭壇が設置されていたその真下の土を、鍬を以て静かに掘り起こし始めた。
三十センチほどの深さまで掘り進めた、その湿った土の底。
そこへ、先夜に三雲から渡されていた神札を、夏美は土の奥深くへと丁寧に埋めた。
湿った穴を塞ぎ、埋め終わった竹宮夏美はのそりと立ち上がった。
高橋宮司の待つ仮設テントに向かって、乾いた砂利を踏みしめ歩き出そうとした、まさにその刹那である。
脳髄の最深部を直接震わせるような、澄んだ声が直に響いた。
『ありがとう』
夏美はハッと息を呑んだ。
一瞬、すぐ隣から誰かに話しかけられたのかと錯覚し、驚いて辺りを鋭く見回したが、そこには八月の白々しい陽光があるばかりで、人影などどこにもない。
——途端、自らの白衣の袂に、ストン、と不自然な、しかし確かな質量を伴った重さを感じた。
不審に思いながら袂の中に細い手を入れて探ってみると、そこには、現世の調度品とは思えぬほど美しい紫色の糸で編まれた、細く長い一本の紐が入っていた。
『御守りだから付けて……』
またしても、頭の中で遮るもののない声が響いた。
それは先夜、自らの肉体を借りて三雲と対話した、あの土地の古き神の残滓に違いなかった。
夏美はそっと袂の紐を握り締めると、誰もいなくなった祭壇の跡地に向き直り、一寸の歪みもない端正な姿勢で深く一礼を捧げた。
それから、再び高橋の待つテントに向かって足早に歩き出した。
「何かあったのかな?……例の、この間の“行”での、用事は無事に済んだかい?」
夏美は袂の紫の紐に意識を遺しながら、努めて普通の調子で答えた。
「はい。終わりました」
言い終わると同時に、高橋は我が子を労うような手付きで、魔法瓶のポットから熱いお茶を湯呑みへと注ぎ始めた。
芳醇な茶の香りが、現世の安堵をテントの中に満たしていく。
祭壇や紅白の幕などの神具もすべて片付け終わり、敷地は再び、ただの広大な空虚へと還っていた。




