第20話 神取りの儀
三雲の放った峻烈な拒絶に、夏美はそれ以上、言葉を紡ぎ出すのを止めた。
男はすぐにいつもの脱力した、しかしどこか現世の調子を保った優しい相好に戻ると、夏美の頭脳から神の欠片を取り除く——いわゆる「神取り」の仕度を静かに始め出した。
三雲は書類の海に溺れた机の上から、煤けた半紙を引っ張り出し、朱色の墨汁を小皿へとねっとりと注いだ。筆の先をその朱に浸すと、半紙に向かって、常人には解読不能な「神代文字」を理路整然とした手つきで書き連ねていく。夏美の視線からは、男が一体何を記述しているのか、その本質を捉えることは到底できなかった。
「竹宮さん。それじゃあ、これから始めるね」
三雲は文字の躍る半紙を細かく折り畳み、無機質な現世の容れ物へと仕立て直すと、それを夏美の額の辺りへとそっと宛てがった。
「竹宮さん、目を閉じて」
男の神経質な声に、夏美は静かにその長い睫毛を伏せた。
すると、三雲は夏美の肉体ではなく、その脳髄の、あるいは魂の深淵に向かって、ねっとりと語りかけ始めた。
「——先日は御拝見させていただき、有難う御座いました。今回お声を掛けさせていただいたのは、この娘の中より出ていただき、元のお地にお戻りいただきますよう、お願いするためです」
室内に、凍りついたような沈黙が蟠る。
しばらくの後、不可解な異変が起きた。夏美自身の唇は一文字に結ばれたままであるというのに、彼女の喉の奥から、全く異なる「声」が響いてきたのだ。それは、驚くほど若々しい男の声音であった。
『三雲。もしワシが嫌だと言ったら、御主はどうする?ワシがこの娘の中にいて、御主に何か困る事でもあるのかね?』
刹那、三雲の丸眼鏡の奥の表情が、劇的に変質した。
あの真夜中の敷地で見せたような、此岸の理を以て彼岸の妄執を圧殺する、冷徹極まりない「真顔」がそこにはあった。
その貌を視た瞬間、夏美の肉体を借りた神の残滓は、気圧されたように声を弾ませた。
『わ、分かった。そんな怖い顔をするな。ほんの軽口を言ってみただけだ。それじゃあ、ワシを出してくれ』
三雲は静かに目を閉じ、その薄い唇を微かに動かして、小声で呪文を唱え始めた。
すると——夏美の額に宛てがわれていた、折り畳まれた半紙が、現世の光を圧殺するような神聖な輝きを放ち始めた。大気の歪みとともに、何事かの質量が半紙の繊維へと宿ったのだ。三雲はその光る紙切れを丁重に神札の袋へと納め、口のところを細い紐できつく結わえた。
「竹宮さん、目を開けていいよ」
夏美はゆっくりと、現世の光の中へと目を向けた。
三雲は手元に残ったその神札を夏美の前に差し出すと、丸眼鏡の位置を直しながら、極めて事務的な、しかし重々しい口調で告げた。
「明日の地鎮祭の時にね、祭壇の真下を三十センチほど掘って、そこにこの神札を埋めるように。……いいね、忘れないように」
男から手渡された袋の質量は、妙に冷たく、そして重かった。いよいよ明日、あの黒沢社長の持ってくる、因縁渦巻くランク“松”の物件での地鎮祭が幕を開ける。夏美は神札を両手で抱き締めながら、静まり返った五号室の空気の底で、避けれぬ宿命の足音を確かに聞き届けていた——。




