第19話 脳内の欠片と准教授の拒絶
三雲はだらしなく長髪の頭をかきむしりながら、丸眼鏡の奥の目を僅かに細め、学生の素朴な疑問に理路整然と答え始めた。
「そうだね、数学や物理みたいに、すぐに現世の役に立つものもあれば、歴史地理学のように徐々に役に立つ物もあると、私は思うな」
男の声は、講義中のそれとは異なり、どこか静かな熱を帯び始める。
「例えば、災害とかかな。毎年我々を襲う台風や大雨などでの雨量や被害状況、地形などを精確に調査して統計を出すとね、どこの河川を工事した方がいいのか、あるいは雨水を一時的に逃がす場所を作った方がいいのか、色々と思考を巡らせて被害を最小限に防いだりしている。古地図や過去の水害記録から、本当に危険な場所を予測し、防災に役立てたりもするんだよ」
三雲は資料を鞄に収めながら、言葉の質量をさらに深く沈めていく。
「これはね、自然を学び、自然をよく知り、自然と真摯に向き合うことで蓄積された結果だと、私は思う。それから歴史地理学には、地球を知ることは勿論、宇宙の……」
男がさらに衒学的な持論を展開しようとした、まさにその刹那であった。
横から違う学生がくすくすと笑いながら、楽しげに割り込んできた。
「ほら、また先生の地理学バカが出てきちゃった。お前も先生をからかうなよ。……みんなね、先生のそういう偏屈な所が好きで、この講義を選択してるんですよ」
学生たちの朗らかな笑い声が、白々しい真夏の講義室に響き渡る中、割り込んできた別の学生が、ふと、すり鉢状の講堂の最上段へと、悪戯めいた視線を走らせた。
「それより先生、あの人をあんなに待たせておいていいんですか?一番後ろに座っている女の人。……あれ、絶対に先生のことを待ってるんじゃないですか?」
その通俗的な現世の指摘に、三雲は鞄へ資料を収めていた手を不作法に止め、のそりとだらしのない頭を上げた。
丸眼鏡の奥の、いつもは据わっている瞳が、ひな壇の最果て——講堂の最も後方の席へと向けられる。
そこには、フリルが波打つ涼しげな淡い水色のブラウスに、焦げ茶色のハーフパンツを合わせ、黒のカチューシャで長い髪を整えた竹宮夏美が、確かに静かに腰を下ろしていた。
三雲は、彼女がいつからそこに侵入していたのか、その時になって初めて気づいたのである。
百六十八センチの肢体を縮めるようにして座っていた夏美と、教壇の上の三雲。
二人の視線が、遮るもののない空間を越えて、真っ直ぐに交わった。
先夜の、あの敷地での、不浄なる神の残滓を巡るおどろおどろしい「行」——そこで意識を途絶えさせて以来の、これが最初の対面であった。
夏美の胸の奥に、年相応の瑞々しい気恥ずかしさと、助けてもらったことへの確かな感謝が、ねっとりと込み上げてくる。
夏美は小さく息を吸い込むと、教壇の男に向けて、静かに、深く頭を下げた。
三雲もまた、いつもの他者を突き放すような冷淡さを僅かに緩め、丸眼鏡の位置を直しながら、言葉もなく、ただ軽く会釈を返した。
学生たちの雑多な喧騒が遠のいていくような、妙に張り詰めた、しかし穏やかな境界の線が、広い講堂の中に一瞬だけ引かれたようであった——。
◇
講義室の前の廊下で佇んでいた夏美の元へ、三雲がどこか恐縮したような、しかし特有の神経質な気配を纏いながら歩み寄ってきた。
「竹宮さん、わざわざ済みません。……体の方は、もう大丈夫ですか?」
夏美は上品な淡い水色のブラウスの袖を小さく整え、その澄んだ双眸を上げて答えた。
「突然お訪ねしてしまい、申し訳ありません。……おかげさまで、ゆっくり休ませていただきました。先日は三雲先生に、色々と御迷惑をお掛けいたしました。本当に、ありがとうございました」
二人が交わす、現世の調子を保った会話。
だが、それを少し離れた場所から、知的好奇心に突き動かされた学生たちが、耳を傍立ててねっとりと盗み聞いている。
その俗世の視線に気づいた三雲は、不快そうに辺りを見回し、長髪の束を僅かに揺らした。
「……ここで立ち話も何だから、私の部屋にいきますか」
促されるまま、夏美は再びあの薄暗い『五号室』へと足を踏み入れた。
三雲は相変わらず乱雑を極めるテーブルの上から、書類の海を億劫そうに机へと移し、夏美を革張りのソファへと促した。
「竹宮さん、珈琲は飲めますか?」
三雲は使い込まれたホーローのポットを手にしながら、丸眼鏡の奥の目をしょぼつかせて尋ねた。
「ええ、飲めます」
夏美が答えると、男はウォーマーにポットを載せてスイッチを叩き入れた。
手際よくマグカップを二つ用意し、ガラス製のサーバーの上へドリッパーを載せ、白無地の紙フィルターをセットしていく。
お湯が沸騰するまでの短い間、三雲は自らの机の椅子に腰を掛け、何事かを深く考究するように、じっと夏美を見つめた。
突如、三雲が椅子から身を乗り出し、その肉の薄い右手を、夏美の額の辺りへと音もなくかざした。
「——ん?」
男の指先から、目に見えぬ因果の糸が伸びる。
三雲はポツリと呟いた。
「竹宮さん、貴女の頭の中にね、神様の欠片がいますよ。……でも、特に障りはないみたいだね。やっぱり、竹宮さんは引きが強いな。神様でも引かれるのか」
夏美は思わずキョトンとして、水守の血脈を引く身でありながら、完全に呆気にとられていた。
「えっ……!私の、その、頭の中に神様が入っている、というのですか?」
驚愕に長い睫毛を震わせながら、夏美は先夜の昏睡の記憶を手繰り寄せた。
「実は、あの“行”の途中で私は気を失っていたような、あるいは夢の中というか、何とも言えない心地良い感覚になっていました。その中で——私は、あの神様と会話をしたのです。これから私が巫女として為さねばならないことや、“行”の心得など、色々と教えていただきました。その事と、何か関係がありますか?」
三雲は組んだ指を顎の下に当て、眼鏡の奥で思考を巡らせた。
「神様の考えることだからね。此岸の理しか持ち合わせぬ私には判らないけれど……何かしら関係しているのかもしれないね」
言い終わると同時に、シュウシュウと音を立ててお湯が沸騰した。
三雲は立ち上がり、ホーローのポットを手に取ると、ドリッパーの中心から少しずつ円を描くようにして、ねっとりとお湯を注ぎ始めた。
部屋の中に、現世の芳醇な珈琲の香りが満ちていく。
男は夏美に熱いカップを渡し、自らも珈琲を飲みながら、淡々と語りかけた。
「でも、あんまり頭の中に神様が居座り続けるというのはね、精神の均衡において良くないかな。珈琲を飲み終わったら、私が取ってあげるね」
「えっ……そんなに簡単に、取れるものなのですか?」
夏美は不思議そうに問いかけた。
「簡単ではないけれどね。……出すことは、できるよ」
三雲の放つ、あまりにも平然とした術理の質量に、夏美はかねてからの現世的な疑問を、衝動的にぶつけてみたくなった。
「三雲先生は……例えば、巷の霊媒師がやるような、人や家に取り憑いた『悪霊』を、お祓いによって祓うこともできるのですか?」
その瞬間、三雲の顔からだらしのない緩みが完全に消え失せた。
男は丸眼鏡の奥の瞳を冷徹に据わらせ、文字通り、真顔になった。
「——そういうのは、やらない」
男の放った静かな拒絶の言霊が、白々しい准教授室の空気を、一瞬にして凍りつかせた——。
三雲の据わった瞳が、一分の隙もなく夏美の表情を捉えている。
「『悪霊』……ね。世間では都合の悪い現象や災いを何でもかんでも『悪霊』のせいにして、拝み倒して追い払えば解決すると思っている者が多すぎる」
三雲は手に持ったマグカップを、カツンと小さな音を立てて木製のテーブルに置いた。
芳醇な珈琲の香りが立つ二人の間に、重苦しい理の質量が落ちる。
「竹宮さん、根本的に勘違いをしてはいけない。この世に存在するあらゆる霊や怪異、神の残滓に至るまで、それらはすべて何らかの『因果』や『理』によってそこに顕現しているんだ。そこに存在するに至った『道理』が必ずある。それを人間側の勝手な都合で『悪』と決めつけ、無理やり祓い清めて力で押し込めるというのはね……言うなれば、痛みの原因である病巣を無視して、鎮痛剤を大量に打ち込んで誤魔化すようなものだ」
男は丸眼鏡を押し上げ、自分の指先を静かに見つめた。
「理由があってそこに居るものを、暴力的な術で『お祓い』なんてすれば、捻じ曲げられた因果の歪みが必ずどこかに跳ね返ってくる。祓われた気になって安心している裏で、別の形でより深刻な障りが生じることだってあるんだよ。だから私は、そんな乱暴な真似は絶対にしない」
「では……先生は、どうなさるのですか?」
夏美が思わず身を乗り出すようにして尋ねると、三雲はいつものだらしのない笑みをほんの僅かに口元に浮かべ、肩をすくめた。
「『紐解く』のさ。なぜそれがそこに留まっているのか、何を求めているのか、歴史や土地の記憶、人と人の因果を丁寧に解きほぐしていく。納得させて、還るべき場所へ還す。あるいは、共存できる形に境界を引き直す。地味で面倒な作業だけれどね、それしか本当の意味での解決にはならない」
言い切りながら、三雲は最後の一口の珈琲を喉へと流し込み、空になったカップをコトンと置いた。
「さて……冷めないうちに、竹宮さんの頭の中の『客分』にも、お引き取り願おうか」
三雲は椅子から立ち上がると、夏美の目の前へと一歩踏み出した。
その身から立ち上る気気配が、だらしない大学准教授のそれから、境界の理を司る異能の術士のものへと一瞬で切り替わる。
「少し、頭を動かさないでいてね」
男の細い指先が、夏美の額の前、数センチの空間にそっと置かれた。
夏美は息を呑み、黒のカチューシャで整えた髪の下で、静かに目を閉じた——。




