第18話 象牙の塔の非日常
今日の夏美は、あの厳かな白衣に緋袴の巫女姿ではない。
二十三歳という若さと、百六十八センチというモデル級の肢体を現世の街へと調和させるような、いかにも年相応な女子の私服に身を包んでいた。
フリルが波打つ涼しげな淡い水色のブラウスに、気品ある焦げ茶色のハーフパンツを合わせ、黒のカチューシャで長い髪をすっきりと整えている。
手元には上品な小ぶりのハンドバッグを下げている。
しかし、以前の彼女とは、その本質が根底から異なっていた。
普段の生活において、ただ漫然と“念”を凝らすだけではなく、水守の秘術たる独自の『印』を指先で結ぶことによって、現世の不浄を弾く強固な防壁をいつでも展開できるようになっていたのである。
出がけの際、高橋宮司はひどく心配そうな顔をして
「クルマで大学まで送ろう」
と頑なに言い張ったが、夏美はそれを丁寧にお断りし、真夏の熱気が残るアスファルトを踏みしめて、最寄りの駅まで足早に歩いていった。
それから高橋は、去りゆく彼女の背中に向けて、
「夏美ちゃん、京さんは神社の仕事を大学内では一部の人にしか知らせていないようだから、大学では言葉を選んで話しをしてね」
と、釘を刺すように付け加えた。
その声には、世俗の秩序と怪異の境界を侵させまいとする、年長者らしい配慮が滲んでいた。
数本の電車を乗り継ぎ、大学の最寄り駅へと辿り着く。
二度目の訪問ともなれば、立体迷宮の縮尺も網膜に馴染んでいる。
夏美は道に迷うこともなく、迷いのない足取りで学校まで歩くことができた。
威容を誇る建物の前に立つと、少し離れた場所に、前回来た時には意識にすら上らなかった守衛用のボックスが静かに佇んでいた。
中には制服姿の守衛が入って待機している。
当然の理ながら、そこにいたのは、先日彼女を現世の彼方へと連れ去ろうとしたあの異形ではなく、ただの年配の人間であった。
正面の巨大な石段を上がると、キャンパスが一望できるあの広大なエントランスへと行き着く。
先日は気づかなかったが、ホールの隅には受付の窓口が設えられており、来訪者はそこで手続きを済ませてから校舎内へと立ち入る仕組みになっているようだった。
夏美が事務員に用向きを伝えると、三雲は今、3号館1階の講義室で講義の最中であると教えてくれた。
「来場者」
と無機質に刻まれたプラスチックのプレートを、水色のブラウスの胸元にピンで留め、夏美は三雲の行う講義室へと向かった。
講義室の前に着くと、長椅子が廊下に佇んでいたので、そこで待つことにした。
すると、遅れて教室に入ろうとした一人の学生が、夏美の洗練された佇まいを認めて足を止めた。
「先生の知り合いの人?この間、先生の所に来ていた人だよね。今日の講義はオープン講義だから、中に入って待っていればいいよ」
学生に促されるまま、夏美は現世の境界を越えるようにして、一緒に講義室へと足を踏み入れた。
内部は、すり鉢状に席が並ぶひな壇のような構造の講堂であった。
四十人ほどの若者が、各々の机にノートを広げて講義を聞いている。
夏美は講堂の後方から気配を殺して静かに侵入すると、一番後ろの席にそっと腰を下ろした。
教壇に立つ三雲は、またいつもの寝癖だらけのだらしのない格好で講義をしている。
あの真夜中の敷地で見せた冷徹なプロフェッショナルとしての姿は、そこには微塵もない。
夏美は、そのあまりの落差を眺めながら、心の内で(……私が先生の面倒を見れば、もっと素敵な准教授になるかもしれないのに)と、突拍子もない妄想を抱いてしまった。
——途端、自らの現世的な思考の過ちを悟り、夏美は激しく妄想を掻き消して、一人で顔を真っ赤に染めてうつむいた。
やがて講義の終了を告げるチャイムが鳴り響き、三雲が教壇の上で後片付けを始めていると、一人の男子学生が不満げな顔で近づき、話しかけた。
「先生、歴史地理学ってさぁ、何の役に立つの?数学とか英語とかはその後の人生に役に立つと思うんだけど。歴史地理学ってねぇ……」




