第17話 巫女の目覚めと新たな決意
——昏睡というのは、時に魂の器を現世に繋ぎ止めるための、精一杯の防壁となる。
結局、竹宮夏美は丸一日の間、泥のような眠りに沈んだままであった。
次に目を覚ました時、彼女を襲ったのは、これまで経験したことのないような猛烈な、かつ生々しい空腹感であった。
現世の肉体が、境界の向こう側で消費した精神の質量を、必死に埋め合わせようとしていたのだろう。
拝殿の裏手に位置する母屋の台所で、夏美が黙々と食事を摂っていると、障子戸を開けて高橋宮司が静かに足を踏み入れてきた。
「夏美ちゃん、おはよう。具合はどうだい?……それだけ食欲があるなら、もう心配はなさそうだね」
高橋の温和な言葉に、夏美は急に恥ずかしさが込み上げ、緋袴の膝の上で小さく身を縮めた。
「昨日はね、京さんが社務所に夏美ちゃんを抱き抱えて連れてきたものだから、流石の私も肝を冷やしたよ。……よほど草臥れていたのだろう。クルマの中でそのまま寝入ってしまったそうだね」
夏美は小さく首を横に振り、うつむいたまま消え入りそうな声で白状した。
「……高橋宮司、私——実はあの『行』の途中から、記憶が全く抜け落ちているのです。三雲先生が、大地の底からあの巨大な神様の残滓を呼び出して、何事かをねっとりと話し合っておられるところまでは覚えているのですが……。その間、なぜだか急に、身体の芯から温かくなって、ひどく心地良いな、と感じたあたりで、意識のチャンネルが完全に途絶えてしまって……」
夏美は、自らの不甲斐なさに深く落胆し、眉をひそめて俯いた。
「私は、三雲先生のサポートをするためにあの敷地へ赴いたはずなのに……。結局は足手まといにしかなれなかった。それが、本当に情けなくて……」
高橋はいつもの父親のような柔和な相好を崩し、優しく彼女を慰めた。
「夏美ちゃん、昨日のは君にとって、言わばまだ初めての『デビュー戦』じゃないか。当の京さんだってね、『彼女はよく頑張っていた。私からも褒めてやってください』と、そう仰っていたんだよ」
だが、娘の胸中の澱みは、それしきの言葉では容易に昇華されなかった。
「……もう、三雲先生に合わせる顔がありません。だって、抱き抱えられるなんて、これで二回目ですよ?私の、その……体重が重いのまで、あの先生に判ってしまったかと思うと……」
夏美は白衣の袖で顔を隠すようにして、頬を真っ赤に染めてみせた。
その年相応の瑞々しい羞恥に、高橋は肩の荷が下りたように、ホッと胸を撫で下ろした。
「実はね」
高橋は声を少し潜め、お恥ずかしい話だが、と前置きして自らの過去を紐解いた。
「私がまだ京さんと知り始めの頃、初めて京さんのあの『行』に同行させてもらった時はね……土地に蟠る強烈な穢れを直接視てしまったものだから、あまりの気味悪さに吐き気を催してしまってね。クルマに戻るなり、そのまま翌日まで寝込んでしまったんだよ」
宮司の意外な失敗談に、二人は互いの顔を見合わせ、室内に朗らかな笑い声を響かせた。
現世の温かい空気が、ようやく彼女の心を満たしていく。
「それでね、夏美ちゃん」
高橋は手帳に目を落とし、事務的な、しかしどこか案ずるような調子で話を戻した。
「明日はいよいよ、あの黒沢社長の物件の地鎮祭なのだが……どうするね?明日は、休みにするかね?」
夏美は、迷うことなくその澄んだ双眸を引き上げた。
「いいえ。私、明日の地鎮祭には必ず行きます。……あの敷地での『行』での、その、お礼もありますし……。高橋宮司、どうか私を同行させてください」
夏美はさらに何かを言葉にしようとしたが、ふと、その唇を噤んで言葉を呑み込んだ。
水守の血を引く者としての、何事か不穏な予兆が、その胸の奥を微かに掠めたのかもしれなかった。
◇
——都会の立体迷宮というのは、一度その骨格を脳髄に刻んでしまえば、さしもの怪異も単なる記号へと成り下がる。
陽光が西へと傾き始めた午後。
竹宮夏美は水川神社を後にし、三雲のいる早慶大学へと向かっていた。
先の『行』において、自らの命を救ってくれたことに対する、彼女なりの礼を尽くすためである。
ふと気づけば、あの大学の薄暗い廊下での事件以来、彼女がたった一人で神社の強固な結界の外へ這い出るのは、これが初めてのことであった。




