第16話 神の残滓と「とこしずめのまつり」
——情念というのは、時に大地の底へ沈澱し、現世の容れ物を得て永遠の業となるものだ。
敷地を埋め尽くしていた狂おしい蠢きは悉く弾け飛び、夜気は嘘のように静まり返っていた。
土の底から這い出てくる穢れの群れは、もはや殆どその息吹きを途絶えさせている。
三雲は結わえた髪の生え際を指先で微かになぞり、暗黒の空間を見据えたまま、低く神経質な声で語り始めた。
「……怨念とか情念、あるいは私怨といった人間の放つ負の感情はね、いつまでもその場所に留まりたいと希求するものなんだよ。しかしね、それ単体であるならば、時が経てばいずれ昇華して現世から消えてしまう。……だが、今回の穢れは違う。もっと根深く、業が強すぎてね、大地の骨格、つまりこの土地の下の方へと深く潜って澱み、そのまま頑固に留まってしまったのだよ」
丸眼鏡の奥の瞳が、冷徹に夏美を射すくめる。
「そしてね、その因縁の蓋をするように、土地の上に『箱』が建てられる。いわゆる“家”という名の現世の容れ物さ。そうなってしまうとね、このモノたちは密閉された箱の中では決して昇華することができなくなってしまう。だから、這い出てきては住まう人間に悪さを仕始めるのさ。……どうですか、竹宮さん。大分、脳髄と肉体を酷使して、疲れ果てたんじゃないかね」
三雲に不意に問いかけられ、夏美は白衣の袖を強く握り締めた。
「……大丈夫です。まだ、やれます」
凛とした調子で気丈に振る舞ってはみせたものの、言葉の語尾が微かに震え、百六十八センチの肢体は現世の重力に耐えかねるようにして小さくよろめいた。
その緋袴の揺らぎは、彼女が限界を超えて精神を疲弊させている事実を、雄弁に物語っていた。
三雲はその様子を視て取り、眼鏡の奥の目を僅かに細めた。
「……ここからは、私の仕事だ。貴女はそこで休んでいなさい。ただね、この怪異の顛末、事の詳細を最後までその眼裏に焼き付けておくことだ。……それから、絶対にこちらに近付かず、離れていなさい」
言い終わるや否や、三雲は顔から丸眼鏡を外し、胸ポケットへと乱暴にしまい込んだ。
朝て、再び胸の前で肉の薄い両手を厳かに合わせ、複雑怪奇な『印』を次々と結び始める。
その薄い唇から、地を這うような、しかし先ほどとは全く異なる禍々しい響きを持った呪文が、低くつぶやかれ始めた。
異変は、大地の底からの悲鳴となって訪れた。
突如、足元の敷地が、激しい地震に襲われたかのように不気味に揺れ動き始めたのだ。
乾燥した土壌がバキバキと音を立てて裂け、その亀裂の奥底から、ドス黒い泥や腐土をねっとりと纏った異様な物体が、せり上がってくる。
最初はほんの小山程度の大きさであったものが、大地の肉を引き裂くようにして、際限なく這い出てくる。
やがて、真夏の夜の暗黒を凝縮したかのような、巨大な、真っ黒の球体をした未知の質量塊が、敷地の中央にその悍ましい姿を完全に出現させた。
直径三メートルは優に超えるであろうその漆黒の物体を目の前にして、夏美は自らの長い睫毛を震わせ、目を丸くして唖然と立ち尽くすしかなかった。
水守の秘術を以てしても、これほどの怪異の核を直視した経験など、ただの一度もありはしなかったのだ。
三雲はその巨大な不浄の塊に向かって、躊躇のない足取りで一歩、また一歩と近付いていく。
刹那、その真っ黒な球体の表面に、生き物の肉を裂いたような縦一文字の切れ目が、どろりと走った。
——次の瞬間であった。
開いた闇の口は、一瞬にして三雲の細長い身体を丸ごと呑み込み、再びその輪郭を閉じてしまったのである。
「——嫌ァーーーーッ! 三雲さん!」
敷地の静寂を引き裂いて、夏美の鋭い悲鳴が響き渡った。
「大丈夫ですか!? 三雲さーん!」
現世の視界から男の姿が完全に消え去った恐怖に、夏美は溢れそうになる涙を一生懸命にこらえながら、危険を顧みずその真っ黒い物体へと駆け寄ろうとした。
その時——。
「……竹宮さん、大丈夫だよ。心配しないで」
遮断された漆黒の球体の内部から、こもったような、しかし確かに聞き慣れた三雲の神経質な声が、現世の空間へと漏れ聞こえてきた。
夏美はハッと息を呑んで足を止めた。
安心したのも束の間、再び球体の内側から、三雲の低い声が響いてくる。
だが——それは今度は、外にいる夏美に向けられた言葉ではなかった。
まるで、その底なしの暗闇の最深部において、現世の人間ではない『何か』と、ねっとりとした対話を愉しんでいるかのような、不気味な会話の響きが、狂おしく敷地に木霊し始めていた——。
夏美が息を潜めて見守る中、真っ黒な球体の内部から、反響する二つの声が夜気へと漏れ聞こえてきた。
「……お騒がせいたしまして、誠に申し訳ございません」
それは、外にいる時と変わらぬ、三雲のあの低く神経質な声調であった。
「私、この度“とこしずめのまつり”を執り行わせていただきます、三雲京介と申します」
男がそう名乗るや否や、どろどろとした黒い物体の中から、全く別の、地を誇るような異音が響き渡った。
掠れ、嗄れ果てた、まるで数百年の年月をその喉に蟠らせた老人のような声音である。
「——誰だ。御主は……神主か。ワシになんの用じゃ」
老人の気配を持つその怪異は、空間を圧殺するように、激しい怒気を含んでまくし立て始めた。
「せっかく気持ち良く寝ていたワシを起こすとは……! この不届きモノが!」
球体の内側で蠢く圧倒的な威圧感に対しても、三雲の声には一寸の揺らぎもなかった。
「お怒りの気持ちは、痛いほど分かります。しかし、貴方様ほどの高潔な御方が、このような場所に怠けておられるのを、私は見過ごすわけにはいかないのです」
三雲の理路整然とした、しかしどこか突き放すような言葉を聞いて、老人の怨念はいよいよ激昂した。
「何を……! 知ったような口をききおって! 御主がワシの何を、一体何を知っていると言うのか! 返答次第によっては——御主を喰らってやるぞ!」
大気が激しく震え、漆黒の表面が波打つ。
しかし、三雲はただ静かに、その土地の「真実」を紐解いてみせた。
「私は、貴方様を存じ上げております。……安房勝山藩酒井家下屋敷、八幡神から分霊されたし貴方様が、今ここにおいて、邪神になられた姿を、箕郷町におられます八幡神になんと報告すればよろしいのでしょうか」
——刹那、球体の気配が、劇的に反転した。
「お、おーっ……。酒井様……! なんと、お懐かしいお名前を思い出させてくれるのか、御主……」
老人の声から禍々しい棘が抜け落ち、今度は打って変わって、現世の老翁のような朗らかな響きを帯び始めた。
「ワシを酒井家家老、吉田様が分霊して、ここに連れて来てくれたのじゃ。……吉田様は、息災にしておられるか?」
過去の因縁に囚われたままの怪異に対し、三雲は冷徹な事実を、しかし静かなる敬意を込めて告げた。
「吉田様は、とうに亡くなられております。貴方様はその吉田様に、この地を守るよう命じられて居たはずです」
その言葉が球体の芯に届くと、老人の声はぴたりと途絶え、深い沈黙が蟠った。
しばらくの後、大気の軋むような溜息とともに、再び老人が話し出した。
「……確かに、吉田様からワシは託されたのであったな。ワシはかつてこの地、人々がとても好きであった。……しかし、藩も廃され、そのうち誰もワシの存在など忘れてしまった。その後、訳の分からぬ輩が好き勝手にワシを愚弄し始め、とうとう、ワシはこの地の人の声の聞こえぬ場所まで、落ちてしまったのだ。……御主にも、辛く当たってしまったようだ。許してくれ」
怪異の正体は、悪意そのものではなかった。
ただ、現世の人間に忘れ去られ、欲望によって歪められた悲しい神の残滓であったのだ。
三雲は、その本質をすべて理解した風に、物静かに応じた。
「私は大丈夫です。……今日ここへ参りましたのは、箕郷町の八幡神から、新たな神札をいただいて参りました。此方を呑み込み、またこの地を御守りくださいますよう、御願いに上がりました」
三雲は、自らの内に秘めていた神札を、そそっと老人の深淵、すなわち球体の最深部へと入れ込んだ。
その瞬間——劇的な変化が起きた。
先ほどまで真夏の夜の闇を凝縮したかのように真っ黒で、泥に塗れていた物体の表面から、ねっとりとした漆黒がみるみるうちに抜け落ちていく。
濁りが洗い流されるようにして、球体は透明な、水晶のような塊へと反転していった。
衣服の隙間から覗く白い光、そしてその中心に、綺麗に髪を結わえた三雲の長身の姿が、再び現世の視界へと浮かび上がってくる。
三雲は透明な球体の内側から、かつてこの地を護っていた神の残滓に向けて、深く、厳かに一礼を捧げた。
しんとした静けさの中に、境界の壁を潜り抜けて球体の外へと歩み出てきた。
その手には、現世の歪みをすべて削ぎ落とした、静かなる夜の静寂だけが残されていた——。
◇
——寅一つ時。
草木も眠る深夜の三時半。
世界の息吹きが悉く途絶え、しんと静まり返った敷地の中に、三雲と夏美の二人の影が浮かび上がっていた。
夏美は、敷地の中央からやや離れた、乾いた土の上に力なく座り込んでいた。
というより、正確には腰を抜かしているようだった。
実際、今しがたその双眸で直視した怪異の顛末——現世の理を融解させるような、神とも呼べる質量塊との対面が、果たして誠なのかそれとも異なことなのか。
その判別すら、今の彼女の疲弊しきった脳髄では下しようがなかったのである。
白衣と緋袴の厳かなる巫女姿は、今はただ夜気の中に頼りなげに揺れている。
髪を綺麗に一本に結わえた三雲が、躊躇のない足取りで、座り込む夏美の元へと近付いていった。
「……動ける?」
男は低く問いかけるが、娘からの返事はない。
夏美の瞳は焦点を結ばず、どこか空虚な彼岸の彼方を漂っている。
三雲は長身を静かに折り、夏美の顔の高さまで視線を下げると、神経質な優しさを込めてささやいた。
「竹宮さん、今日はご苦労さまでした。……目一杯、強固な『矛の結界』を展開して、心身共に限界まで疲れきったところに、あの神の残滓と直に対面してしまったんだからね。でも、ちょっと距離が近すぎたかな。あれだけ間近で神を凝視してしまったのだから、その神威に当てられてしまったのだろう。……もう、休んでいいよ」
三雲は、魂の抜けた操り人形のようになった夏美の百六十八センチの肢体を、長い腕で軽々と抱き上げると、そのまま無骨なルノー・4へと連れていき、助手席のシートへと静かに座らせた。
衣服の隙間から覗く白い肌は冷え切り、クルマに乗せられた夏美は、泥のような昏睡へと沈み込むように、既に深い眠りに就いていた。




