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禊祓師(みそぎはらえし)  作者: 溶けた犬
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第15話 裏の清め:神聖なる斥力

八月の真夜中の暗闇が、現世の理を飲み込もうと、 敷地の向こうで黒々と渦巻いていた——。


——此岸と彼岸を峻別する境界の線というのは、時に一本の麻縄、 一本の竹を以て容易く定まるものだ。


運転席の扉が開き、三雲が夜気の中へと這い出た。 少し遅れて、助手席側から白衣と緋袴の厳かなる巫女姿に身を包んだ 竹宮夏美が静かに降り立つ。


三雲は車のトランクを開けると、暗闇の中で大小様々な木箱を手際よく整理し始めた。 裏の清めに不可欠なる、時代を吸い込んだ神事の道具箱の群れである。 男はその中から幾つかの箱を抱え上げ、背後に控える夏美の手へと躊躇なく手渡した。


二人は、眠りについた住宅街の路地から、ぽっかりと口を開けた広い敷地へと足を踏み入れていった。


一歩、その土を踏みしめた瞬間、夏美は真夏の夜であるというのに、 自らの背中を凝固したような冷たい風が吹き抜けていく不気味な感覚を覚えた。 水守の血脈が、その土地の異常性を敏感に察知し、警鐘を鳴らしていたのだ。


澱んだ陰気が最も濃く渦巻く敷地の中央に辿り着くと、二人は持ち込んだ木箱を厳かに開き始めた。


三雲は箱の奥から、鋭く削られた四本の斎竹(いみだけ)を取り出し、 夏美の目を射すくめるようにして手渡した。


「……四隅に、刺しなさい」


斎竹を受け取った夏美は、その刹那、自らの全身に目に見えぬ重たい質量を乗せられたかのような、 息苦しい違和感を覚えた。


身体の髄までねっとりと侵食してくる土地の穢れに抗いながら、 彼女は必死に四隅の土へと竹を突き立て、作業を進めていく。


三雲は、夏美が配した四本の斎竹の境界をなぞるように、 時計回りに注連縄しめなわを銃わせ、現世と異界を峻別する防壁を素早く巻き結んでいった。


張り巡らされた縄の真ん中に立つと、三雲は背後の夏美を鋭い声で呼んだ。


「私の後ろにある、その胡床(こしょう)に座りなさい」


夏美は鉛のようになった重い足取りをどうにか急がせ、 設えられた折り畳み式の胡床へとその肢体を沈めた。


「——目を閉じて」


三雲の薄い唇から、他者を拒絶するような、低く神経質な命が下る。


夏美がその長い睫毛を伏せ、暗黒の視界に身を委ねた、まさにその刹那であった。


「——カーン!」


突如として、空間の全てを劈くような、甲高い金属音が真夜中の敷地に響き渡った。


夏美は思わず「うっ」と短い声を漏らし、身体を強張らせた。


しかし、その耳裏に残る峻烈(しゅんれつ)な残響は、あの大学の薄暗い廊下で聞いたものと全く同一の、 三雲の放った言霊の音であるとすぐに気づいた。


不思議なことに、その音が響き渡った瞬間、 先ほどまで彼女の全身を苛んでいた、あの鉛のような肉体の違和感や息苦しさが、 嘘のように霧散していったのである。


そして——周囲の虫の音も、遠くの街の気配も、現世のあらゆる雑音が完全に掻き消え、 世界は水を打ったような静寂に包まれた。


三雲が静かに振り返り、丸眼鏡の奥の据わった瞳で夏美を見つめた。


「どうですか。……今まで、少し辛かったでしょう。 大丈夫ですか? これから、本格的な祭壇を組み立てます。 私と一緒に、やれますか」


夏美はその澄んだ双眸を開き、一寸の怯えもない声でしっかりと答えた。


「……大丈夫です。やらせてください」


こうして、現世の穢れを祓う「裏の清め」の、その基盤となる準備はすべて調った。


三雲は、懐から古びた手帳を取り出し、地を這うような低い声調で語り始めた。


「それでは、竹宮さん。ここからが、本当の地獄、いわゆる本番だよ。 まずはね、この土地の底に蟠り、住み着いている不浄なるモノどもを、 一斉に現世へと引きずり出す。 これらの異形はね、自覚のない君の血の香りに惹かれ、猛然と竹宮さんへと引き寄せられていくはずだ。 ……水守の秘術を以て、結界の内で弾いていなさい」


「分かりました!」


夏美は白衣の袖を強く引き締め、覚悟を込めて応じた。


三雲は胸の前で細い両手を厳かに合わせ、複雑にして流麗(りゆうれい)な印を結んだ。 そして、唇を微かに動かし、地鳴りのような、独特の抑揚を持つ祝詞を紡ぎ出し始めた。


異変は、瞬時に訪れた。


敷地の土壌が、まるで融解したようにズブズブと蠢き始め、地面の至る所から、 黒く細い、まるで紐かミミズのような不気味な物体がゆらゆらと這い出てきたのだ。


それらの悍ましい蠢きは、空中でもつれ合い、絡み合いながら、 より巨大で太い「怨念の質量」へと膨れ上がり、獲物を見定めた獣のように、 夏美の百六十八センチの肢体を目指して狂おしくのたうち寄ってくる。


夏美は再び静かに目を閉じ、脳髄の奥底で、故郷の祖母と母から授かった 竹宮家の秘的な唱文を狂おしく唱え始めた。


白々しい闇の中でも、夏美の肉体の表面が、 神聖にして冷徹な青白い光を放ち始めているのが明確に視て取れた。


それは、現世の理を拒絶する圧倒的な壁であり、まるで闇を飛び交う羽虫が、 強力な誘虫灯の光へと無差別に吸い寄せられていくかのような、 そんな特異にして悍ましい光景であった。


引き寄せられた黒い穢れのモノたちが、その青白い光の境界線に触れた、 まさにその瞬間——。


「——バチバチバチバチッ!」


激しい紫電の如き破裂音とともに、異形どもは一瞬にして粉砕され、 無様に弾け飛んでいった。


あの水川神社の拝殿で視せた仮初めの訓練の時とは、その破壊の質量が、根底から異なっていた。


水守の血脈に眠る『矛』の能力が、実戦の恐怖によって急激にその本質を覚醒させ、研ぎ澄まされていく。


夏美の精神の集中力は、流石の三雲すら瞠目せざるを得ないほどに、凄まじいものであった。


最初のうちこそ、自らの肉体の肉薄するまで引き付けた位置で穢れを弾いていた夏美であったが、 呼吸を重ねるにつれ、その防壁の射程は爆発的に拡大していった。


やがて、異形どもが土の底からその不浄な輪郭を覗かせた、まさにその刹那に、 近づく暇さえ与えられず、ただの塵となって虚空へと弾け飛び、消滅していくようになったのである。


男の紡ぐ重々しい祝詞の響きの中で、巫女の放つ青白い光は、敷地の暗黒を侵食するように、 いや増して峻烈に輝き続けていた——。

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