第14話 忌み地:ランク「松」の歴史
「高橋宮司、私の身を案じていただき、本当にありがとうございます。ですが……私は現世の裏側の、その真実の実地というものを、この目で体験してみたいのです。三雲先生——よろしくお願いいたします」
夏美は白衣の膝の上で深く頭を下げ、その身を怪異の深淵へと、自らの意志で差し出す選択を終えた。
——夜の暗黒というのは、単に光が遮断された状態を指すのではない。それは、昼間の世界が押し隠してきた、現世の不浄な澱みが一斉に網を張り巡らせて這い出てくる時間のことだ。
◇
都内、深夜二時。
世界の息吹きが悉く途絶え、しんと静まり返った閑静な住宅街。周囲の民家は一様に眠りに就き、頼りなげな街路灯の明かりだけが、アスファルトの上に歪んだ影を落としている。
その静寂を文字通り滑るようにして、一台の無骨な乗用車がゆっくりと近付いてきた。
ルノー・4は、ヘッドライトを消し、闇と同化するようにして住宅地の一画にその車体を滑り込ませた。
真っ暗な車内には、二人の人影が身を潜めていた。三雲と、竹宮夏美である。
今日の三雲は、あの大学の五号室で見せたような、だらしのない寝癖だらけの男ではなかった。
長髪は隙なく綺麗に梳き整えられ、後ろの低い位置で一本の細い束にきつく結わえられている。
その端正に峻別された佇まいは、これから現世の理を超えた境界へ挑むための、一種の儀礼的な武装のようでもあった。
三雲は車内灯を点けることもせず、闇に紛れたまま、隣の助手席に座る夏美に向けて、低く、そして針のように神経質な声で語り始めた。
「……あそこに見える敷地が、今回、高橋さんが地鎮祭を執行する予定の場所です」
男の細い指先が、フロント硝子の向こうにある暗い空間を指し示す。
「私の調べたところによると、あの場所には今からおよそ三百年ほど前、ある由緒正しい旧家が居を構えていた土地です。敷地内には邸内社として厳かな神様も祀られていて、地域一帯からも非常に信仰の厚い、いわば聖域とも呼べる清浄な場所だった。しかし——今から百五十年ほど前に、この土地は他人の手に渡ってしまった」
三雲は丸眼鏡の位置を僅かに直すと、その言葉の質量を重く沈めた。
「それから現在に至るまで、都合八人ほどの人間がこの土地を利用してきた。だが、その中には土地への感謝や敬畏の念を微塵も持ち合わせぬ不届き者や、現世の強欲に塗れた者、あるいは底知れぬ陰気を帯びた者たちが次々と住み着いてしまった。結果として、今から八十年ほど前から、土地の霊的な均衡が完全に崩れ、激しく穢れ始めてしまった。そこからは、もう判で押したような因果の崩壊さ。この土地に足を踏み入れた人間に、次々と不可解な災厄や不祥が起こるようになった。いつしか、現世の人間からは『曰く付きの土地』として忌避されるようになったというわけだ」
夏美は白衣の膝の上で拳を握り締め、車窓の外の敷地をじっと見つめた。
「三雲先生……。私たちがこれから行う『裏の清め』というのは、一体、どのようなことなのですか」
三雲は、きつく結わえられた髪の生え際を指先で微かになぞりながら、理路整然と応じた。
「私たちがこれから行うことは、この土地の狂おしい澱みを静めること。あちこちに散らばっている人間の生々しい怨念や穢れを悉く取り除いて、現世の欲望によって歪んで、傷んでしまった神様の依代を、元の綺麗な状態へと還してあげること」
「高橋宮司から預かった、あの物件情報をもとに……ですか」
「そうだね」
三雲は小さく頷いた。
「高橋さんから譲り受けた物件の概要を出発点にして、登記の履歴や、古地図、地方の文献など、あらゆる現世の資料を渉猟してその土地の因縁を紐解き、地域的な本質を『理解』する。これはね、私が大学で教えている『歴史地理学』という学問にも、非常に共通している部分が多いのだよ。地形の成り立ちや歴史的な因果、大地の骨格を知らないことには、境界の向こう側の怪異に対処することなど、到底不可能なのさ」
男はそこで言葉を区切り、ふと、丸眼鏡の奥の瞳を鋭く据わらせた。
「……さて、講義はここまで。それでは、これから車の外へ出るとしよう」
三雲の言葉とともに、車内の空気が一気に張り詰める。
「竹宮さん、外へ出たらすぐに結界を張ってください。貴女も——この異様な臭いに、もう気づいているだろう?」
夏美の鼻腔に、あの拝殿での訓練とは比べものにならないほど、ねっとりとした、肉の焦げるような酷い屍臭が微かに漂ってきた。
「色々なモノがね……今、あの境界線の外側で、我々、特に貴女を待ち受けているよ」
男の静かな拒絶の言葉とともに、二人は同時に車の扉に手を掛けた。




