第13話 結界の「矛」と真夜中の誘い
後に残されたのは、ただ、灯籠の火に照らされた暗い拝殿の静寂と、静かに目を開けた夏美の、かつてないほど鋭く澄んだ双眸だけであった——。
異形が霧散した拝殿の中は、ただ、薄暗い陰気だけを残して、しんと静まり返っていた。
その凍りついたような沈黙を破ったのは、パチ、パチ、と、乾いた、しかし規則的な手の鳴る音であった。
三雲が、その細長い両手を叩いていたのだ。
「……竹宮さん、頑張りましたね。よい結界でした」
男の言葉には、いつも他者を突き放すような神経質さが、今は珍しく鳴りを潜め、確かな感嘆の響きが含まれていた。
それに追従するように、後方で見守っていた高橋宮司も、安堵の笑みを浮かべて深く拍手を送った。
三雲は丸眼鏡の位置を僅かに直すと、床に座し直して続けた。
「今回の穢れはね、私が術理を用いて意図的に構築した、言わば『仮初めの模造品』に過ぎない。しかしね、君の結界の強度を計測する尺度としては、極めて有効に機能してくれた。……そこでだ、竹宮さん。貴女に少し、確認しておきたい質問がある。先ほど、あの影が男の姿へと輪郭を結び始めた刹那、何か五感で感じ取ったものはなかったかね」
夏美は白衣の袖の内で細い指を絡ませ、自らの脳髄の記憶をまさぐるようにして、少し考えながら答えた。
「……そう、ですね。あの影が男の姿になった瞬間、何かしら、肉の焦げるような、ねっとりとした酷い臭いが鼻腔を突いたのを覚えています」
「——やはり」
三雲は満足げに、しかしどこか冷徹に頷いた。
「その臭いはね、このこちらの世界においては『屍臭』と定義されるものだ。現世の理が腐り落ちる時に放たれる因縁の毒気だよ。この臭いをね、的確に嗅ぎ分け、脳髄で識別できるようになれば、事前の兆候を捉えて、より優位に強固な結界を張ることが可能になる。そしてだ——今回の試みで、竹宮さん、貴女の結界には、固有の『矛』の能力が秘められていることも、同時に判明したのだよ」
その言葉に、それまで静観していた高橋宮司が、驚いたように身を乗り出した。
「矛……?京さん、それは一体どういう意味かね。結界というのは本来、守護の壁ではないのか」
三雲は、長髪の寝癖をガリガリと掻き毟りながら、理路整然とした口調で説明を始めた。
「本来ね、結界というのは、此岸と彼岸を峻別する、いわゆる『盾』の要素が強い防壁の能力なんだよ。外敵を入れないための境界線だ。しかしね、竹宮さんの能力は、ただ拒絶するに留まらない。襲いくる穢れを正面から圧殺し、押し払うという、能動的な攻撃の質量を内包しているということだよ。ただし、今回視せたものはまだ、ほんの端緒の要素が強い。実戦の場で試してみないことには、その精確な本質はなんとも言えないがね。……そこでだ、具体的な実地の話をしよう」
三雲は声を一段と低く沈め、二人の顔を交互に射すくめた。
「高橋さん。黒沢社長から持ち込まれた、例のランク“松”の物件だがね。本番の地鎮祭の前に、今日の夜中——正確には明日の午前二時、その敷地の『裏の清め』を執行する。そこにだ、竹宮さんを同行させたいと考えているのだが、どうだろうか」
高橋宮司は、小太りの腕を組んだまま、静かにその柔和な目を閉じて考え込んだ。
堂内に、油の爆ぜるかすかな音が響く。やがて、深く溜息を吐き出すと、苦渋の滲む声を絞り出した。
「……正直な私の気持ちを言わせてもらえばね、まだ早すぎる、と言いたいところなんだ。あの男の持ってくる“松”の土地の澱みは、並大抵のものではないからね。しかし——私は、夏美ちゃんのその真っ直ぐな意志を、最優先に尊重したい。夏美ちゃん、君はどうだい?」
問いかけられた竹宮夏美は、一寸の歪みもない毅然とした、強い覚悟を宿した双眸で、ハッキリと言葉を発した。




