第12話 再会と拝殿の試験
予告もなく、三雲がふらりと水川神社にその姿を現した。
本殿の傍らに佇む古びた社務所の応接室で、男は物静かに待ち受けていた。
木製の引き戸ががたがたと音を立てて開き、高橋宮司と、そして白衣と緋袴の厳かなる巫女姿に身を包んだ夏美が室内へと足を踏み入れる。
三雲の風体は、三週間前と何ひとつ変わってはいなかった。ところどころに頑固な寝癖を残した長髪に、不揃いな無精髭。
一言で表現するならば、およそ大学の教壇に立つ人間とは思えぬほどだらしのない佇まいで、社務所の使い込まれた革張りソファに、その細長い巨体を沈めていた。
丸眼鏡の奥の据わった瞳が、入ってきた夏美を捉える。三雲は、低く神経質な声で問いかけた。
「竹宮さん、体調はどうかな」
「——おかげさまで、調子はすっかり良いです」
夏美は百六十八センチのすらりとした肢体を折り、白衣の袖を美しく整えながら答えた。
「先日、母と祖母がこちらへ出てまいりまして、色々と手ほどきを受けておりました。今は、教わった秘術の数々を、脳髄と身体に馴染ませている最中です」
「……そうらしいね」
三雲はだらしなく頭の芯を掻き毟りながら、満足げに鼻を鳴らした。
「冬音さんからね、先日、直接連絡をいただいて概要は伺っているんだよ。それで、私が今日ここに這い出てきたのはね、起源たる水守の血を引く貴女がこの三週間で、一体どの程度の強度を持つ結界を構築できるようになったのか、その精度を直に視るためだ。……高橋さん、拝殿を少々借用しても構わないかね」
三雲の唐突な要請に、高橋は腕を組み、いつもの温和な相好に確かな好奇心を滲ませて頷いた。
「いいですよ。私としても、水守の秘術がどのようなものか、是非この目で拝見したいですからね」
三人は静寂に包まれた拝殿へと移動した。
真夏の白々しい陽光が満ちる時刻であるというのに、三雲の指示によって、拝殿の木製戸や障子はことごとく閉め切られた。
現世の光を完全にシャットアウトされた堂内は、ただ隅に置かれた古びた灯籠の、微かな油の炎だけがゆらゆらと揺らめき、暗く不気味な陰影を周囲に落としている。
拝殿の中央、三メートルほどの距離を隔てて、三雲と夏美が対峙するようにして床に座した。
高橋宮司は、夏美の斜め後方、境界の外側から見守るように控えている。
三雲の細長い身体が、のそりと立ち上がった。男は胸の前で細い両手を厳かに合わせ、複雑にして流麗な『印』を次々と結んでいく。
同時に、その薄い唇から、地を傷つけるような低い唱文が紡ぎ出された。
——夏美の脳髄に、あの日の恐怖が鮮烈に蘇る。
(あの時の、言霊だ……)
刹那、遮断された拝殿の床、三雲と夏美のちょうど中間の空間から、どろりとした黒い物体がぼんやりと湧き出してきた。
その不浄な黒は、陽炎のように揺らめきながら、徐々に現世の輪郭を形成し、肉付けされていく。
——守衛の男である。
あの時、早慶大学の裏庭で彼女を喰らおうとした、口の動かぬあの異形が、今、夏美の眼前に厳然と立ちはだかっていた。
凄まじい恐怖が、夏美の身体を駆け抜ける。身体中の血の気が一気に引き、指先が凍りついたように冷たくなるのを、彼女は明確に自覚した。
肺腑が恐怖で潰されそうになり、夏美は思わず激しい拒絶の身震いをした。鮮やかな緋袴が、床の上で小さく擦れる音を立てる。
守衛の姿をした怪異は、その虚ろな瞳を夏美に向け、泥の傷をなぞるような足取りで、一歩、また一歩と彼女の間合いへと近づいてくる。
夏美は逃げ出したい衝動をどうにか抑え込み、その長い睫毛を伏せ、静かに、深く目をつぶった。
水守の血脈に眠る、祖母と母から授かった術理のパズルを、脳内で爆発的な速度で組み立てていく。
異形の守衛が手を伸ばし、その穢れた指先が、夏美の白衣の肩口に触れようとした、まさにその刹那であった。
「——バチバチッ!」
拝殿の静寂を切り裂いて、峻烈な紫電の如き破裂音が鳴り響いた。
現世の理を拒絶する強力な斥力が発動し、守衛の手は一瞬にして撥ね返されたのだ。弾かれた凄まじい勢いのまま、異形の身体は床の上へと無様に転がった。
夏美は、未だ目をつぶったままであった。その薄い唇は、肉眼では捉え切れぬほどの速さで動き、口の中で竹宮家特有の秘的な唱文を狂おしく唱え続けている。
彼女の周囲には、目に見えぬ強固な因果の壁が、厳然たる『結界』として立ち上がっていた。
床に倒れた守衛の男は、のそりと立ち上がり、怒気を含んだ気配で再び夏美に向かって歩みを進めようとした。
しかし、どうしたことか、その足は一歩も前方へと進まない。まるで、不可視の巨大な質量に正面から圧殺されているかのように、男の身体は激しく拒絶され、次第に後方へと押し戻されていく。
衝して——抵抗の術を失った怪異の輪郭は、大気の歪みの中に融解するようにして、そのまま完全に、跡形もなく消えてなくなった。




