6
放課後。
そわそわと、葉月は茉奈を待つ。周りでぺちゃくちゃと喋っている四、五人の声は耳から耳で、内容も判らないまま適当に相槌を繰り返しているだけだった。
茉奈は日直で、数学の授業で使った教材を返しに行っている。今日は一緒に帰ろうと約束しているから、もうじき戻ってくるはずだ。
(早くこないかな)
シンプルに、早く茉奈に会いたいという気持ちに加えて、彼女がどんな顔をするのかを早く見たいという気持ち。
人に囲まれている葉月を見た時の茉奈の顔を、どう形容したらいいのか彼には判らない。
けれど、その顔を見ると、葉月は何かを手に入れた気がするのだ。
だから、その顔を見たくて、彼はすぐにでも茉奈のところに行きたい気持ちをグッと堪えて彼女を待つ。
「だけどさぁ、奥谷さん、よく葉月と付き合ってられるよね」
他の連中の会話など聞き流していた葉月だったけれど、アイが発した聞き捨てならない台詞に顔を上げた。
「なんでだよ。僕、茉奈のこと大事にしてるよ?」
「大事、ねぇ。確かに奥谷さんのこと大好きだぁっていうのは凄く解るんだけどさぁ、なんか、『特別』感がないっていうかさ」
「『特別』?」
「そ。あたしは、彼氏にするならお兄さんの方がいいな」
「お兄――って、睦月兄さんのこと? 何でだよ。兄さん、サッカーばっかで女の子なんて全然興味ないよ」
あの兄が誰かのことを好きとか言っているところなんて想像もできないし、もしも付き合っても放置されるに決まっている。
笑った葉月に、アイが肩をすくめた。
「だからだよ」
「何が『だから』なんだよ」
「付き合ってもらえたら、それだけで『特別』って感じられるってこと」
「僕だって茉奈のこと、ちゃんと『特別』に好きだってば」
葉月はムッと言い返した。と、アイが隣のリナと顔を見合わせる。
「でも葉月って、イマイチ、行動伴ってないよねぇ」
「ねぇ」
その女子二人どころか、他の野郎どもでさえ、解かる解かるとばかりに頷いている。
葉月はさっぱり納得いかないが。
不満顔をしている彼に、アイが仕方ないなぁという顔をする。
「だってさ」
一言置いて、彼女は葉月に向けて両腕を伸ばしてくる。
そして。
「平気でこんなことさせちゃうじゃん」
そんな台詞と共に、ギュッと抱きついてくる。
葉月は眉をしかめて彼女を見下ろした。
「何やってんの?」
「ハグ」
「それしてどうすんの?」
「何も思わないっていうのが、問題なんだけどなぁ」
やっぱり訳が解からない。
「取り敢えず、暑いから離れてくれない?」
言いながら、葉月はアイの両肩に手を置いた――その時。
「あ、まずい」
リナが舌打ち混じりで呟いた。
彼女を見れば、目を大きくして葉月の背後――教室の戸口の方を凝視している。
何だろうとアイをしがみ付かせたまま肩越しに振り返れば、そこには茉奈がいた。
「茉奈!」
パッと笑顔になって彼女に向き直った葉月だったけれど、次の瞬間ギョッとする。
何となれば、彼が笑いかけた茉奈の大きな目から、透明な雫がコロリと転げ落ちたから。
「え? 何で?」
駆け寄ろうとした葉月を、震える小さな声が押し留めた。
「どうして……」
葉月は立ち止まり、眉をひそめる。そうして彼女の言葉の続きを待ったけれども、その一言で茉奈はキュッと唇を噛み締めて、うつむいてしまう。
「茉奈?」
彼はその距離を縮められないまま、彼女を呼んだ。
と、茉奈が勢いよく顔を上げ、潤んだ眼差しでキッと葉月を睨む。
「どうして大石くんがわたしといたがるのか、全然、わかんない!」
「茉奈!?」
今まで聞いたことがないような大きな声でそれだけ残し、彼女は踵を返して走って行ってしまった。
一瞬頭の中が真っ白になって茉奈を見送ってしまった葉月だったけれども、すぐに我に返る。慌てて廊下に飛び出すと、呆然としていた時間が思ったよりも長かったのか、彼女はずいぶん遠くにいた。
「茉奈!」
呼ばわっても、振り向いてくれない。
「くそ」
唸って茉奈を追いかける。
廊下を走りながら、葉月は自分を罵った。
茉奈のことを傷付けたいわけじゃなかった。
ただ、彼女の気持ちを感じたかっただけだ。
ただそれだけだったのに、あんなふうに茉奈を泣かせてしまった。
(ごめん)
奥歯を噛み締めて謝った。
けれど、心の中でそう言ったって、茉奈には聞こえない。
葉月は走ることに専念する。
追いかけて追いかけて、彼がようやく茉奈を捕まえることができたのは中庭まで来た時だった。
「茉奈!」
細い腕を掴んで引き止めて、ふら付きよろけた彼女を抱き留める。
「や! 放して!」
「いやだ」
葉月はもがく茉奈を腕の中に閉じ込めるようにして抱きすくめる。
「ごめん」
顎の下にある茉奈の頭に唇を押し付けるようにして葉月は囁いた。刹那、腕の中の彼女がしゃくりあげるのが伝わってきて、胸が締め付けられる。
「ごめん」
「何で、謝ってるの」
くぐもった茉奈の声は、咎める響きを含んでいた。
彼女が言いたいのは、何に対して謝っているのか、ということなのだろう。けれど葉月はその答えを持っていないから、その理由を口にする。
「君を、泣かせたから」
「わたしがどうして怒ってるのか、解ってないくせに」
「……」
返事ができない。
だから、もう一度、謝った。
「ごめん」
そうして、葉月は腕に力を籠める。そうしないと、振り払われてしまいそうな気がしたから。
しばらく、沈黙。
少しは気持ちが落ち着いたのか、しゃくりあげるのは減っている。
どうしよう、と束の間ためらってから、葉月は思いつくまま言葉を紡ぎ出す。
「ホントに、ごめん。でも、茉奈はいつも笑顔だから、僕のことを好きで笑顔なのか判らなくなっちゃったんだ」
「……そんなこと言ったら、わたしだって、大石くんがどうしてわたしといたいのか全然判らない」
もごもごと、彼女が言った。
葉月は一瞬言葉に詰まる。
「茉奈のこと好きだからだよ」
今までだって、何度もそう伝えてきたはずなのに。
言葉にしてもダメなら、葉月はどうしていいか判らなくなる。
とにかく茉奈に解かって欲しくて、言葉を絞り出す。
「どうして茉奈のことを好きなのかって訊かれたら答えられない。それだと、ダメかな。好きの理由を言えないと、茉奈と一緒にいたらいけない? でも、茉奈のことが好きだから一緒にいたいんだ」
「それは……だって……葉月くん、他の女の子も、ギュってするよね?」
「は?」
思わず茉奈の肩を掴んで離れて彼女の顔を見下ろした。
「それって、どういう意味? え、あ、もしかしてさっきの?」
葉月は必死にかぶりを振った。
「僕からはしないよ! ……でも、ごめん。もうしないっていうか、させない」
茉奈は大きく目を見開いている。
葉月は何一つ隠さず心の中を見せてくれているその目を見つめて、悟った。
そもそも、あんなふうに茉奈を試すような真似をしたことが、間違いだったのだ。
「僕は茉奈のことが好きだけど、茉奈は僕のことが好き?」
ズバリと尋ねたその問いに、一瞬にして、茉奈は首まで真っ赤になる。
彼女はこんなに解かり易いのに、疑う必要なんてこれっぽっちもなかったのに。
「ごめん、答えなくていいよ」
慌てて前言を撤回した葉月の耳に、囁くような声が届く。
「……き」
「え?」
茉奈は真っ赤な顔のままで、葉月を見上げている。彼女は一度喉を鳴らしてから、口を開く。
「好き。おおい――葉月くんのことが、好き」
それが耳から頭に届いた瞬間、葉月は胸の中にぶわりと花が咲いたような心持ちになった。
「キスしていい?」
気付いた時には口から言葉が転がり出していて、言ってしまってから状況を思い出す。
こんな中庭の公衆の面前で、彼女がうなずくはずがない。
「今のなし」――そう言おうとした葉月の舌が、続く茉奈の返事で固まった。
「今は、ダメ」
「え?」
自分の耳を疑って思わず問い返した葉月に、茉奈が若干うつむき気味でもう一度繰り返す。
「今は、ダメ」
(それって、つまり)
「後でならいいってこと?」
つい確認してしまうと、返事の代わりとばかりに茉奈が真っ赤になった。
「はは」
「どうして笑うの。じゃあ、しない」
ムッと頬を膨らませた茉奈を、葉月は力いっぱい抱き締める。
「ごめん。あんまり嬉しいから、笑えてきちゃったんだ」
「そんな理由、ない」
「ある、よ。……ホントに、泣かせてごめん」
腕の中の小さな温もりを包み込んで、葉月は囁く。
「もう間違えないようにする。でも、もしもまた僕が何かしちゃったら、ちゃんと言って。君を二度と泣かせたくないから、君が悲しく思うことは、ちゃんと教えて欲しい。泣かせたくないだけじゃなくて、笑っていて欲しいから、嬉しく思うことや好きなことも、教えて欲しい。茉奈のことは、何でも知りたいんだ」
沈黙。
ややして、とてもとても小さな声で。
「……葉月くんがぎゅっとしてくれるの、好き」
葉月は大きく息を吸い込んだ。そしてそれを吐き出しながら、言う。
「それ、今言うか……」
「葉月くん?」
茉奈が首を反らせて彼を見上げようとする気配が伝わってきた。葉月は懐深く彼女を掻い込んだ。そうしないと、熱くなった頬を見られてしまうから。
どんなに強く抱き締めても、茉奈の身体はもう強張らない。
それはすなわち――
(君は僕のことが好きだから)
葉月は彼女の丸い頭に頬を乗せ、言葉よりも確かなその事実に微笑んだ。