9.新たな出会い
数日後。
東條邸の母屋で、彩音は厳格な両親から正式な縁談の知らせを受けていた。
「代々帝国軍部を支える藤枝家の長男。陸軍大学校の藤枝結城殿との縁談が進むことになった」
「お縁談……でございますか」
「そうだ。非常に優秀で誠実なお方だと聞き及んでいる。東條家の娘として、これ以上ない良縁だ」
母もまた、優しく、けれど逃げ場を与えない眼差しで彩音を見つめる。
「彩音。これが貴女の進むべき道ですのよ。東條家の名に恥じぬよう、完璧な令嬢としてお臨みなさい」
冬馬に拒絶され、すべてを諦めた彩音は、離れで兄に誓った決意を胸に、ただ静かにうなずくしかなかった。
「——はい、お父様、お母様。お言いつけ通りにいたしますわ」
深々と頭を下げる彩音の頭上で、静かに、そして抗えない運命の歯車が再び動き始める。
◇
そして迎えたお見合いの当日。
帝都の一角に佇む、歴史ある老舗の高級料亭。庭園の美しい静かな個室には、両家の親同士の挨拶が穏やかに交わされるなか、彩音と結城の二人が向かい合っていた。
(軍部を支える藤枝家の方……どんなに厳格で堅苦しい方なのかしら……)
彩音は緊張に身を固くしながら、完璧な令嬢の笑みを浮かべていた。やがて親たちの配慮で、二人は庭園を望む離れの席へと移る。
スッと姿勢を正した結城が、濃紺の制服を纏った長身をわずかに傾けた。凛々しく引き締まった顔立ちは硬派そうに見えるが冬馬とは違う健康的な美しさがある。
「——改めてまして、藤枝結城です。現在は、陸軍大学校に通っております。」
「お初にお目にかかります、東條家の長女、彩音でございます」
彩音はいつものように完璧な微笑みを作って頭を下げた。だが、結城はその整った眉をわずかにひそめ、彩音の顔をじっと見据えた。
「……笑っているが、目がまったく笑っていないね」
「っ……!」
予想外のストレートな指摘に、彩音は思わず息を呑んだ。これまでの人たちは誰もが彼女の「完璧な笑顔」をそのまま信じて褒めそやしたのに、この男は一目で見抜いたのだ。
「作り物の令嬢を演じるのは疲れるだろう。私は堅苦しい挨拶や、お互いに腹を探り合うような真似は好きではありません。思っていることがあるなら、そのまま言ってくれて構わない」
その硬派で率直な物言いに、彩音は面食らいつつも、どこか緊張の糸が少しだけ解けた感覚を覚えた。
(この人は……私の仮面を、最初から剥ぎ取るつもりなのだろうか……)
気まずい沈黙が流れたあと、結城は背筋を伸ばし、まっすぐで誠実な瞳を彩音に向けた。
「……私は、この縁談を前向きに考えています。もちろん、君がいきなりこんな男を気に入るはずがないことも分かっているつもりです。」
「私を……前向きに?」
「ああ。軍人である私は、いつ何があるかわからない身です。だからこそ、人と向き合うときは嘘をつきたくない。彩音さん、君さえよければ、これから少しずつ互いを知っていけないだろうか。形だけの夫婦ではなく、お互いに何でも言い合える関係になれたらと思っています。」
その言葉には、初対面の堅苦しさや探り合いなどは一切なく、一人の男としての誠実さと、硬派な決意だけが宿っていた。
失意の底にあった彩音の胸に、その温かな重みのある言葉が静かに染み混んでくる。
(冬馬さんには「妹」として冷たく突き放された私なのに……この人は、一人の女性として、真っ直ぐに向き合おうとしてくれる……)
その頃——。
隣の楠木邸の書斎の窓辺から、冬馬は冷ややかな瞳で、遠くに出かけていく彩音の姿を見送っていた。
(今日が、お見合いの日か....。)
頭では「家柄のためにも仕方ないことだ」と理屈を並べ立てながらも、指先に挟んだシガレットの煙が怒りに震えるように大きく揺れている。
いつも大切に隣にいたはずの彩音が、自分の手の届かない場所へと連れて行かれる。その事実が、胸の奥で正体のわからない激しい焦燥感と黒々とした独占欲に火をつけていた。




