8.雨のあと
泣き濡れたまま動けずにいた彩音の耳に、障子を軽く叩く音が届いた。
「……彩音。入ってもいいか?」
聞き覚えのある、穏やかで落ち着いた声。東條家の長男であり、彩音の優しい兄である司だった。
「……お兄様」
返事をする間もなく、司が静かに部屋へ足を踏み入れた。外の雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から零れた月明かりが、静まり返る離れをぼんやりと照らし出している。
司は離れの近くを通りかかった際に漏れて聞こえた話し声や、先ほどまでここにいた冬馬の姿を見かけており、心配になって様子を見に来たのだ。
司はぐしゃぐしゃになった彩音の姿を見ると、何も言わずに彼女の前にそっと膝をついた。
「……外まで、お前の絞り出すような泣き声が聞こえたものだからな」
司は懐から上品な麻のハンカチを取り出し、彩音の涙に濡れた頬へそっと差し出した。
「お兄様……私、どうしたらいいのか……。私、ずっと冬馬さんの隣にいたいと願っていました。でも、私ではダメだったみたいです。……やはりお隣の『妹』でしかなかったのよ……っ」
堰を切ったようにあふれ出る本音に、司は優しく大きな手で彩音の頭を包み込むように撫でた。
「……知っていたさ。お前がずっと、あいつを目で追っていたことも、お隣との不器用な距離感に悩んでいたこともな。……だがな、彩音。冬馬は頭が良すぎるがゆえに、自分で勝手なルールを作って周りを縛る悪癖がある。.......ましてや恋愛となるとどうしようもなく子供なんだ。」
「いいえ。冬馬さんは私を『妹』としか見ていませんわ。……もう、いいのです。私は『完璧な令嬢』として、家のために生きるべきなのだわ」
司の表情に、かすかな曇りが走る。けれど彼はすぐに穏やかな笑みに戻ると、彩音の目を真っ直ぐに見つめた。
「家柄や世間体がどうこう言う親父たちの言うことも一理ある。だがな、彩音。お前は東條家の『白百合』である前に、俺の大切な妹だ。……誰かの檻に閉じ込められて、自分の心に嘘をつき続ける人生なんて、俺は望んじゃいない」
「……ありがとうございます、お兄様。.....」
「お前がいつか本当に自分の心に従いたくなったときは、いつでも兄に言いなさい。力になってやるから」
温かな兄の気遣いに背中を押されながらも、彩音は失意のなかで「すべてを諦める」という冷たい道を選ぶしかなかった。
◇
数日後。東條邸の母屋で、彩音は両親から告げられた。
「代々帝国軍部を支える藤枝家の長男。陸軍大学校の藤枝結城殿との縁談が進むことになった」
冬馬に振られ、すべてを諦めた彩音は、ただ静かにうなずくしかなかった。
「……はい、お父様、お母様。お言いつけ通りにいたしますわ」
失意のなかで動き出した新たな縁談。その先で待ち受ける運命の出会いを、この時の彩音はまだ知る由もなかった。




