10.帝都での散策
料亭での顔合わせから一週間ほどが過ぎた、うららかな午後のこと。
彩音は両親の勧めもあり、結城と二人だけで帝都の街を散策することになっていた。
日傘をすっと差し、歩調を合わせて歩く彩音の隣で、結城は陸軍大学校の制服ではなく、仕立ての良いシンプルな洋装に身を包んでいる。軍人らしいスキのない背筋の伸び方は相変わらずだったが、その横顔にはどこか穏やかな空気が漂っていた。
「……歩く速度、早すぎないか? 着物姿では大変だろう」
ふと結城が足を止め、彩音の顔を覗き込むようにして声をかけた。
「いいえ、藤枝様。お気になさらないでくださいませ。この程度、何の苦にもなりませんわ」
彩音はいつものように淑やかに微笑み、完璧な令嬢として答えようとした。だが、結城は苦笑いを浮かべながら、少し困ったように自分の後頭部を掻いた。
「またそれだ。『藤枝様』なんて堅苦しい呼び方も、その無理に作ったような笑顔も、そろそろやめにしてくれないか」
「え……?」
「俺のことは『結城』と呼んでくれればいい。それに、疲れたなら疲れたと言ってほしいんだ。……俺は、君の『完璧な令嬢』としての顔じゃなく、東條彩音という一人の人間の本音が知りたい」
飾らないまっすぐな瞳で見つめられ、彩音は言葉を詰まらせた。
これまでの人生で、誰もが「完璧な東條家の令嬢」であることを自分に求めてきた。
しかし結城は、その完璧さの裏にある疲れや戸惑いごと、素の自分を受け入れようとしてくれている。
「……では、結城様。少しだけ、喉が乾きましたわ」
彩音が小さな声で本音を口にすると、結城の表情が一気に明るくなった。
「そうか! よし、近くに美味い珈琲と甘味が食べられるハイカラな喫茶店があるんだ。そこに行こう」
その弾んだ声と無邪気な笑顔は、初対面のときに見た「キリッとした凛々しい顔立ち」とのギャップが大きく、驚くほど可愛らしかった。彩音は不意をつかれ、思わずくすっと小さく口元を緩めた。
◇
案内されたレトロな喫茶店のテラス席で、二人は温かい紅茶と餡みつを前に向かい合っていた。
「結城様は……どうしてそんなに真っ直ぐに物事をおっしゃるのですか?」
ふとした疑問を口にした彩音に、結城は紅茶のカップを手に取り、少し遠い目をしながら答えた。
「さあな。軍人としての訓練を受ける中で、明日、何が起きるか分からないという現実を嫌というほど叩き込まれるからかもしれない。自分の想いを溜め込んで、後から『伝えておけばよかった』と悔やむような生き方はしたくないんだ。だから、好きなものや大切なものには、いつでも正面から向き合いたい」
「好きなもの……」
「ああ。俺は君のことが気になっているし、これから夫婦になるなら、何でも言い合える一番の味方になりたい。……焦る必要はないさ。君が俺を信用してくれるまで、何度でもこうして話をしに来る」
その言葉には、一切のキザな下心も押し付けがましさもなく、ただ途方もなく大きな誠実さだけが込められていた。
冬馬に「妹」として冷たく線引きされ、自分の想いも立ち位置もすべて否定されたような孤独の中にいた彩音にとって、結城の差し出す手はあまりにも温かく、眩しかった。
(この人は、私が『完璧』でなくても、ちゃんと見ていてくださる……)
胸の奥に閉じ込めていた「檻」の扉が、ゆっくりと、音を立てて緩んでいくのを彩音は感じていた。
◇
その頃。
楠木邸の書斎で、冬馬は机の上に広げられた難解な論文に目を落としながらも、ペンを握る手を完全に止めていた。
使いから耳に入ってきた、「彩音が藤枝家の長男と帝都の街へ出かけて行った」という報せ。
頭では分かっている。自分が彩音を突き放したのだと。彼女の将来のため、家柄のため、そして幼馴染としての正しい線引きをしたのだと。
(……だが、なぜだ)
指先に挟んだシガレットの煙が、冬馬の激しい動揺を映すように揺れる。
彩音が自分以外の男に向ける笑顔。自分以外の男の手を取る未来。
それを想像するだけで、冷徹で理性的であるはずの胸の奥から、恐ろしいほどの焦燥感と、黒々とした嫉妬がこみ上げてくる。
冬馬は静かに目を閉じ、強く拳を握りしめた。
自分が妹のように大切にしてきた「白百合」が、他人の手によって奪われようとしていることに、それがどういうことか少しづつ理解し始めていた。




