11.雨上がりの庭と、秘められた異変
料亭での顔合わせから数日後。
帝都に静かな雨が降り注いだ翌朝、庭の白百合の葉から滴がこぼれ落ちる静寂の中、彩音は隣家との境目にある小さな勝手口の近くに立っていた。
ふと足音が聞こえ、振り返ると、そこには楠木冬馬が立っていた。
あの雨の日に冷酷な壁を作っていた時とは違い、どこか落ち着いた、だがどことなく探るような瞳。冬馬はゆっくりと歩み寄り、彩音から少し離れた場所で足を止めた。
「……彩音」
「冬馬さん……」
二人の間に流れる空気は、あの拒絶の夜の刺々しさを失っていた。
冬馬の中にあったのは、(彩音と今までの関係に戻りたい、このままでは駄目だ)という切実な焦りだった。あんな酷い振り方をしても、彩音との繋がりが切れてしまうことだけは、どうしても耐えられなかったのだ。
「……この間は、酷い言い方をした」
冬馬がぽつりと落ち着いた声で切り出した。その声には、冷徹なエリートとしての仮面を脱ぎ捨てた、素の柔らかさが混じっていた。
「お前を傷つけるつもりはなかった……と言えば嘘になるな。あの時の俺は、お前が俺に向ける真っ直ぐな想いに戸惑っていたんだ。楠木家と東條家の立場や、互いの将来を考えるあまり……大人の対応ができなかった。すまなかったな」
彩音は息を呑んだ。冬馬が素直に非を認め、頭を下げることなど、これまで一度もなかったからだ。
「俺にとって、お前は生まれた時からずっと隣にいるのが当たり前の存在だ。……『妹』のように愛おしく、誰よりも大切に思っている。だからこそ、お前と気まずいまま離れていくのは嫌だったんだ。……また以前のように、困ったことがあればいつでも頼ってほしい」
冬馬の言葉は、完璧だった。
「頼れるお隣のお兄さん」としての温かい仮面をかぶり、彩音との間にできてしまった亀裂を綺麗に修復しようとする言葉。
彩音にとっても、その言葉は救いだった。
結城という誠実な男と出会い、一人の人間として向き合ってもらったことで、彩音の心には「冬馬への依存」から抜け出す強さが芽生え始めていた。だからこそ、冬馬の「兄としての歩み寄り」を素直に受け入れることができたのだ。
「冬馬さん……ありがとうございます。私にそう言っていただけて、胸のつかえが降りましたわ」
彩音はすっと背筋を伸ばし、かつての失意の影を払った、澄んだ微笑みを冬馬に向けた。
「私、ずっと冬馬さんに『妹』としか見てもらえないことが悲しくて、勝手に傷ついていました。でも……冬馬さんが私を大切な幼馴染として、妹のように思ってくださっていたのなら、もう十分です。……私、結城様と少しずつ前を向いて歩んでみようと思っています」
彩音の瞳には、かつて冬馬を追いかけていた切ない陰りはなく、結城との未来を見据える強い光が宿っていた。
「……そうか。藤枝殿となら....前向きに進めそうなんだな」
冬馬はフッと口角を上げ、あの懐かしい「お隣のお兄さん」としての柔らかい笑みを浮かべた。
「何かあればいつでも言えよ。幼馴染として、力になるから」
「ふふ……はい。頼りにしていますわ、冬馬さん」
二人の間にあった重苦しい空気はすっかり消え去り、そこには初夏の澄んだ空のような、温かく心地よい関係が戻った……はずだった。
彩音が小さく会釈をして離れへ戻っていく背中を見送りながら、冬馬はポケットの中で握りしめた拳に力が入りすぎていることに気づいた。
(……仲直りはできた。これで元の関係に戻れたはずだ)
頭ではそう納得させようとしているのに、なぜか胸の奥が冷たく重い。スッキリとしないどころか、モヤモヤとした不快な焦燥感が鬱積していく。
彩音が藤枝氏の名前を口にした時の、あの胸を刺すような嫌な痛みは何だ。
なぜ自分は、兄として彼女の幸せを祝ってやれない?
ただの幼馴染の情だ。妹を他人に取られるような、単なる寂しさに過ぎない——。
(……バカバカしい。俺が、彩音に……?)
脳裏を掠めた恐ろしい疑問を、冬馬は即座に激しく否定し、思考の奥底へ押し込めた。自分が彼女を「妹」としてではなく、一人の女として意識し始めているなどと、認めるわけにはいかなかった。理性のエリートである自分にとって、それは到底許されない「異変」であり、絶対に気づいてはならない感情だったからだ。
冬馬はシガレットに火をつけ、揺れる煙の向こうで閉ざされた東條邸の屋敷を、歪んだ瞳で見つめ続けていた——。




