6.雨の離れと、あふれる本音
しとしとと降り続く激しい雨が、東條邸の竹林を白く煙らせていた。
夕刻の薄暗闇が迫る中、彩音は離れの和室で一人、机に向かっていた。雨音だけが響く静寂。だが、その胸の中は、サロンで目撃した冬馬と須藤桜の仲睦まじい光景と、今朝一人で登校したときの冷たい孤独感が渦巻き、激しい切なさに支配されていた。
(私には……冬馬さんの隣に立つ資格なんて、最初からなかった……)
教え込まれた良妻賢母の教え。完璧な令嬢としての仮面。その内側で渦巻く泥臭い恋情を必死に押し殺そうと目蓋を閉じた、その時だった。
トントン、と離れの濡れ縁を叩く控えめな音が響いた。
「……彩音。入るぞ」
障子が静かに開くなり、滑り込んできた人影に彩音はハッと息をのんだ。
そこに立っていたのは、傘から滴る雨滴を纏った冬馬だった。
帝都大学のスーツに外套を羽織り、濡れた黒髪が額に落ちている。その佇はいつも以上に色っぽく、そしてどこか危険な陰を帯びていた。
「冬馬さん……? こんなお天気の日に、どうして……」
「司さんから頼まれた本を届けに来たんだ....」
冬馬は濡れた外套を脱ぎ、畳の上に本を置いた。
だが、彼を迎えた彩音の硬質な態度に、ふと冬馬の動きが止まる。
いつもなら幼馴染として柔らかい表情を見せる彩音だが、今はどこか頑なに視線をそらし、丁寧すぎるほど距離を取って深々と頭を下げている。まるで、ただの「お隣の知り合い」に接するかのような、踏み込ませない余計な礼儀正しさとよそよそしさ。今朝、自分を置いて一人で学校へ行った態度そのままだ。
「……彩音」
冬馬の涼しげな瞳が、危うい光を宿して細められた。
胸の奥で、経験したことのない不快なざわめきが立ち上る。
「……何か、俺に隠していることはないか?」
「いいえ、何も……。お足元の悪い中、本をお届けいただきありがとうございます。……どうぞお気遣いなくお戻りくださいませ」
「お邪魔、か」
冷たく言い放たれた言葉に、冬馬の理性のタガが僅かに軋んだ。
冬馬は静かな歩調で立ち上がると、離れを出ようと身を引いた彩音との距離を、逃げ場を塞ぐように一気に詰めた。
「あっ……」
彩音の背中が、離れの柱に当たる。
逃場を失った彩音の眼前に、冬馬の長い影が覆いかぶさった。
ふわりと押し寄せる、湿り気を帯びた洋煙草のほろ苦い香りと、上質な石鹸の匂い。雨の匂いと混ざり合い、狭い離れの空間が一瞬で冬馬の存在感で満たされていく。
冬馬は片手を柱につき、逃がさないと言わんばかりに彩音を見下ろした。
「お前……あの日、サロンに居ただろう」
「……え?」
「帝都学園のサロンだ。友人たちと話していたとき、逃げるように走り去っていくお前の後ろ姿が見えた。……そして今朝も、稽古などというわかりやすい口実で俺を避けた」
低い、耳元に響くような声。
至近距離で問いただされ、彩音の息が止まる。
「なぜ声をかけずに立ち去った? なぜ俺を避ける?」
「それは……っ」
「ただの気まぐれだと言い張るつもりか?」
問いつめられ、彩音の胸の奥でずっと蓋をしていた苦しさと、溢れそうな想いが限界を迎えていた。須藤桜と楽しそうに笑い合う冬馬の姿が脳裏によみがえり、胸が引き裂かれるように痛む。
「――だって……!」
思わず声を張り上げた彩音の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……私以外の.....!あんな風に他の女性と楽しそうに笑っていらっしゃる冬馬さんを……これ以上、近くで見ていられなくて……っ!」
「……なに?」
冬馬の端正な眉が、驚愕にわずかに揺れた。
感情を隠し、「完璧な白百合」を演じ続けてきた彩音が、初めて見せた剥き出しの涙と弱音。
「私にとって、冬馬さんは……ただのお兄様などではありません。ずっと、ずっとお慕いしておりました……! ですが、貴方にとって私はただの『妹』で、須藤さんのような方が冬馬さんの隣には相応しいと…...っ!だから、離れようと思ったんです....っ」
震える声で零れ落ちた、初めての告白。
それは彩音にとって、自ら「白百合の檻」の壁を壊して差し出した、痛切すぎる恋心のすべてだった。




