5.朝靄の距離
帝都学園のサロンで、冬馬と須藤桜が仲睦まじく笑い合っていたあの光景が、彩音の脳裏から離れなかった。
胸を突き刺すような激しい痛みと切なさ。自分はどこまでいっても「お隣の妹」でしかなく、彼にとって真に心を許せる相手は、あの自由で華やかな須藤桜なのだという現実が、容赦なく突きつけられていた。
翌朝。いつもの時間であれば、車寄せで冬馬が佇み、彩音に優しくショールをかけ直してくれる時間だった。
だが、彩音は鏡の前で手早く髪を整えると、使用人に静かに声をかけた。
「……今日は少し早めに出かけますわ。」
「彩音様、まだお隣の若様はお越しになっておりませんが……」
「ええ、構いませんの。冬馬さんには、お稽古の準備がありますので先に出たと伝えてください」
彩音は完璧な令嬢の笑みを浮かべ、ショールを固く手繰り寄せると、一人で勝手口の格子戸を潜り抜けた。
いつも二人で乗り込む車を避け、あえて歩きを選ぶ。
冷たい朝の空気が頬を撫でるが、肩に残るはずの冬馬の温もりも、彼が纏うシガレットのほろ苦い香りもない。一人で歩く石畳の小道は、どこまでも広く、冷たく感じられた。
(これでいいの……。冬馬さんにご迷惑をおかけするわけにはいかないもの)
「お隣の妹」としてのわきまえ。冬馬の負担にならないよう、そして何より、これ以上彼に心を乱されて傷つかないよう、自分から静かに距離を置くこと。それが自分にできる唯一の選択なのだと自分に言い聞かせる。
◇
一方、少し遅れて東條邸の車寄せに姿を現した冬馬は、そこに彩音の姿がないことに僅かな違和感を覚えていた。
帝都大学のスーツを身に纏い、煙草に火をつけようとしたその時、東條家の使用人が恐縮した様子で頭を下げてきた。
「冬馬様、申し訳ございません。彩音様は本日、学校のお稽古の都合があるとのことで、一足先にお出かけになられました」
「……先に行った?」
冬馬の手が止まる。
指先に挟んだシガレットの煙が、風に流れて消えていく。
彩音が自分を置いて先に登校するなど、これまで一度たりともなかったことだ。
冬馬の涼しげで端正な眉が、僅かにひきつるように強ばる。
(……稽古、だと?)
幼い頃から彩音の行動や日課をすべて把握している冬馬にとって、それが出来合いの口実であることなど一目瞭然だった。彩音はあえて自分を避け、一人で出て行ったのだ。
昨日、サロンのテラスで見かけた逃げるような後ろ姿。
そして今朝の、露骨なまでの回避行動。
「……そうか」
冬馬は低く呟くと、煙草をポケットに押し込み、冷ややかな瞳で彩音が去ったであろう朝靄の道を睨みつけた。
胸の奥で、今まで感じたことのない、どろりとした嫌な焦燥感が渦を巻き始めていた。自分を避ける「妹」の意図が理解できず、その手からすり抜けていくような感覚に、エリートとしての冷徹な理性が静かに歪み始めていた——。




