4.帝都大学の華
放課後、彩音は兄の司に頼まれた書類を届けるため、帝都大学の敷地へと足を踏み入れていた。
女子高等学校の静寂とは対照的に、帝都大学には大正の新しい風が吹いていた。洋館の校舎、行き交う学生たちの快活な議論の交わし合い。その一角にある、学生や紳士淑女が集うモダンサロン『銀嶺』のテラス席の前を通りかかったとき、彩音の足がふと止まった。
陽光が降り注ぐテラス席で、テーブルを囲む冬馬の姿があった。
スリーピースのスーツの冬馬は、いつも通り完璧で美しい。だが、その向かいには、見慣れない華やかな女性が座っていた。
断髪にモダンな洋装を着こなし、鈴が鳴るような高い声で笑う美しい女性——須藤 桜だ。
(……須藤桜さん……)
彩音はその名前に、胸の奥がキュッと収縮するのを感じた。
冬馬とおなじく大学でも群を抜く秀才として将来を嘱望されている桜。以前から冬馬との普段の会話の中で、何度かその名前を聞かされたことがあった。
「官僚の秘書やその上の地位を目指してサロンで議論を交わす、実に聡明で面白い女性がいる」と。
自由で物怖じせず、自分の意志を堂々と主張する桜。
厳格な東條家の教えに縛られ、「完璧な令嬢」として感情を押し殺して生きてきた自分とは、何もかもが真逆の女性だった。
「まあ、冬馬さんは相変わらず素っ気ないのね! でも、そういう意地悪なところもエリートの余裕かしら?」
桜はお茶目に首をかしげると、冬馬の目の前に洋菓子を差し出してみせる。
すると、普段は他人に冷淡な冬馬が、ふっと口元を緩めて返していた。
「……意地悪をしているつもりはない。ただ、君の論理に飛躍があると言っているだけだ」
「もう、抜け目がないんだから! でも、そこを言い当ててくれるのは冬馬さんくらいよ」
互いに議論を交わし、絶妙な間合いで笑い合うふたり。
桜と談笑している冬馬を、離れた場所から初めて直接目にすることとなった。
冬馬の口から聞いてはいたものの、実際に目にした二人の空気感はあまりにも自然で、息がぴったりと合っていた。冬馬の冷たい理性を軽やかに揺さぶる桜と、どこか楽しげにそれに応じる冬馬。
その仲睦まじい光景を目の当たりにした瞬間、彩音の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような激しい痛みに襲われた。
(冬馬さんが……あんな風に、他の女性に心を許して笑っていらっしゃる……)
自分がいくら冬馬の側にいても、決して引き出すことのできなかった表情。自分にはない自由さと華やかさを持つ桜の前で、冬馬はとても心地よさそうに佇んでいる。
自分は「お隣の妹」でしかなく、冬馬の隣に並ぶ資格など最初からなかったのだと思い知らされたような気がした。
「……あ」
込み上げる切なさと痛みに耐えかね、彩音は抱えていた書類をぎゅっと胸に抱きしめると、逃げるようにその場から足早に立ち去った。
離れていく彩音の後ろ姿に、冬馬がふっと顔を上げた。
指先に挟まれたシガレットの煙が一瞬大きく揺れる。
澄んだ瞳が、急速に遠ざかっていく彩音の華奢な背中を捉えていた。
「……彩音?」
冬馬の美しい眉が僅かに強張り、その切れ長な瞳に動揺の色が走り抜けた。
立ち去る彩音の後ろ姿を見つめる冬馬の胸の中でも、静かに狂おしい波紋が広がり始めていた——。




