3.彩音の帰宅後
女子高等学校の放課後を知らせる鐘が響き渡ると、彩音は静かに鞄をまとめ、教室を後にした。
校門を出ると、すでに手配されていた車が待っていた。車夫に会釈をして乗り込み、帝都の街並みを抜け、目白の東條邸へと戻る。
重厚な薬医門をくぐり、打ち水がなされた飛び石を進むと、玄関で年配の使用人が出迎えた。
「お帰りなさいませ、彩音様。旦那様と奥様が、お座敷でお待ちかねでございます」
「ただいま戻りました。すぐに向かいます」
羽織を脱ぎ、姿勢をさらに正して奥の和室へと向かう。障子を静かに引き、「彩音でございます」と声をかけて畳に手をついた。
室内には、厳格な面持ちの父と、品格溢れる佇まいの母が座していた。部屋の中に満ちる静寂は、彩音にとって幼い頃から身に染みついた「家」の重圧そのものだった。
「彩音、上がりなさい」
「はい、お父様」
畳の目を乱さぬよう淑やかに歩みを進め、両親の前に座る。
父は冷然とした眼差しを彩音に向け、静かに口を開いた。
「女子高等学校の卒業もいよいよ近づいてきた。お前は東條家の長女として、どこへ出しても恥ずかしくない大和撫子として育ってきた。……だが、大切なのはこれからだ」
「はい……」
「我が東條家の名を汚さぬよう、常に控えめであり、夫となるお方を影から支え、家を守る。良妻賢母たることがお前の務めだ。感情に流され、取り乱すような真似は決して許されない。お前は完璧な白百合でいなければならんのだ」
母もまた、静かに頷きながら言葉を添える。
「彩音。女の幸せとは、己の我が道を押し通すことではなく、家のため、夫のために尽くすことにありますのよ。立ち振る舞い一つ、微笑み一つにまで、東條家の誇りを宿しなさい」
「……はい、お父様、お母様。重々、心に刻んでおります」
深々と頭を下げる彩音の視線は、畳の畳目を静かに見つめていた。
(完璧な白百合……良妻賢母……)
幼い頃から繰り返し叩き込まれてきたその教えは、彩音の体に染み付いた重い鎧だった。己の本当の感情を殺し、誰からも非の打ち所がない令嬢であり続けること。それが東條彩音という人間の生きる道なのだと、自分に言い聞かせる。
挨拶を終え、客間を出て自分の離れへと向かう廊下を歩いていると、ふと庭の生垣の向こうに視線がいった。
隣の楠木邸の洋館。その2階の窓に、ほんのりと明かりが灯っている。
(冬馬さん……)
もし自分が、この重い「白百合の檻」から抜け出したいと願ったら、冬馬さんはどう思うだろうか。
いや、冬馬さんにとって自分は「お隣の妹」に過ぎないのだ。我が家と楠木家の立場を守り、親友として温かく見守ってくれている彼に、こんな苦しい想いを打ち明けることなどできるはずもない。
彩音は胸の奥に湧き上がる寂しさをそっと押し殺し、離れの部屋の障子を静かに閉めたのだった。




