2.白百合の檻
車が帝都の舗装された石畳を滑らかに進んでいく。
隣に座る冬馬の肩から外されたショールには彼の温もりがじんわりと伝わっていた。彩音は自分の肩を包む生地にそっと指を沈める。そこからは、冬馬特有の洋煙草のほろ苦い香りと上質な石鹸の匂いが立ち上り、鼻先をかすめるたびに胸の奥が甘く疼いた。
彩音は膝の上で重ねた手をぎゅっと握りしめ、流れていく春の初めの街並みに視線を逃がした。
「……彩音。学校では、どう過ごしているんだ?また無理をしているのではないか?」
静かな声が、すぐ隣から落ちてくる。
冬馬は外套のポケットに両手を突っ込んだまま、前を見据えていた。帝都大学でも群を抜く秀才として将来の官僚と目される彼の横顔は、一歳しか違わないとは思えないほど大人びている。すっと通った鼻すじと涼しげで美しい目元は、朝の光の中でもどこか神秘的な影を帯びていた。
「いいえ、何も……。お稽古も、授業も、つつがなく励んでおりますわ」
「そうか。お前は昔から、そうやって『完璧』を演じようとする」
冬馬はふっと短く息を吐き出すと、彩音の方へと視線を巡らせた。
切れ長な瞳が、彩音の表情の微かな陰りを見逃さずに捉える。
「東條家の長女としての立場も、女子高等学校で『白百合の君』などともてはやされる評判も、お前を形取る檻でしかないだろう。俺の前でまで、そんな風に背筋を強張らせる必要はない」
「冬馬さん……」
冬馬の長くて白い手が伸ばされ、ショールの端を整え直しだした時、彩音のうなじの近くにそっと冬馬の指先がかすめた。
触れられた皮膚から伝わる微かな熱と、耳元をかすめる彼の低い呼吸。そのあまりにも密やかな距離感に、彩音の心臓が大きく跳ねあがる。
「……俺にとっては、お前がどれだけ大人びた振る舞いをしようと、愛らしい『お隣の妹』だ。何かあれば、いつでも頼ればいい」
どこまでも静かで、理性的な声。
(妹……)
その言葉が、鋭い針のように彩音の胸の奥を刺す。
冬馬は幼馴染として誰よりも自分を理解し、慈しんでくれている。けれど、その優しさは「妹に対するもの」という強固な理屈の壁で守られており、彼自身もそこから決して踏み出してはこない。
冬馬が放つ大人びた色香と優しさに心を乱されながらも、彩音はまた「完璧な令嬢」の笑みを貼り付けるしかなかった。
「……ありがとうございます。冬馬さんは、本当にお優しいお兄様ですわね」
彩音のその言葉を聞いた瞬間、冬馬の美しい眉がほんの僅かだけ引きつるように強張り、ショールに触れていた指先がピタリと止まった。
しかし冬馬はすぐに元の冷ややかでスマートな表情に戻ると、「……当たり前のことだ」とだけ低く呟き、静かに視線を外したのだった。
◇
女子高等学校の門前に到着すると、彩音は感謝の礼を述べて車を降りた。
校門をくぐると、すれ違う女学生たちが一斉に彩音へ憧れの視線を向け、淑やかに頭を下げてくる。
「おはようございます、彩音様。今日も白百合のように、本当にお美しいことですわ」
「……ねえ、先ほどお送りになられたのは、お隣の楠木様でしょう? 帝都大学でも『帝都の貴公子』と評判のお方……お二人並ばれると、まるで絵巻物のようですわね」
うっとりと溜息をつく同級生たちの言葉に、彩音は胸の奥の痛みを隠して優雅に微笑んだ。
「皆様、おはようございます。……冬馬さんとは幼馴染でございますから」
誰もが羨む「お隣同士」の特別な距離。けれど、その特別さは「妹」という枠組みの中に閉じ込められたものでしかないことを、知っているのは彩音だけだった。
放課後、賑やかな教室の窓辺に立ち、庭園の青葉を見つめるとき、彩音の美しい瞳には深い寂しさが落ちる。
(私はいったい、誰のためにこの『檻』の中にいるのだろう……)
冬馬の側にいるときに感じる、息の詰まるような切なさと愛おしさ。
彼にとって「守るべき妹」でしかありえない自分は、このまま誰かが決めた運命に従っていくのだろうか。
東條家と楠木家、二つの大邸宅を繋ぐ静かな道に、切ない恋情が揺れていた。




