1.二つの大邸宅
大正のころの帝都。春の初めの訪れを告げる木々の香りが漂う一角に、高い塀を隔てて隣に並び立つ二つの大きな邸宅があった。
先祖代々続く格式高い名家として広大な日本庭園と母屋を構える、純和風の大邸宅——東條邸。
片や、政財界の重鎮を務める新進気鋭の一族として、洗練された西洋館と日本庭園を併設した和洋折衷の大邸宅——楠木邸。
初春の朝靄が静かに立ち込めるなか、和風邸宅の勝手口の格子戸が、控えめな音を立てて開いた。
「——彩音様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
年配の使用人が深々と頭を下げる。そこから足を踏み出したのは、白百合のように凛とした佇まいの少女、東條家の長女・東條彩音であった。
紺絣の袴に、清楚な小紋の着物。そして花柄の羽織りに身を包んでいる。整えられた黒髪には控えめな髪飾りが挿され、背筋はすっと伸びている。女子高等学校では誰もが憧れる大和撫子そのものの姿だが、その美しい瞳には、朝の静けさに似たどこか寂しげな色が宿っていた。
彩音はゆっくりと歩を進め、二つの邸宅を繋ぐ小道の先にある、大きな車寄せへと向かう。
車寄せの傍らでは、すでにお隣の楠木家長男、楠木冬馬が佇んでいた。
帝都大学のスーツに外套を羽織り、首には紺色のショールを巻いている。その優秀さを体現したかのような美しい立ち姿。将来の官僚と目される一歳年上の彼は、普段から感情をあまり表に出さず、どこか冷めた雰囲気を纏っている。
けれど——彩音の足音に気づいた瞬間、その涼しげな目元がふっと柔らかく揺れた。
「……おはよう、彩音。今日も清いな」
低く落ち着いた声。周囲には決して見せないその温かな眼差しは、幼い頃から隣で育ってきた彩音だけに向けられる特別なものだ。
「おはようございます、冬馬さん。お待たせしてしまいましたか?」
「いや、俺が早く着きすぎただけだ」
冬馬はそう言ってポケットから革の手袋を取り出しながら、彩音の顔を覗き込んだ。
言葉数は少なく、態度はどこか素っ気ないほど静かだが、その手つきは驚くほど細やかだ。
「また指先を冷やしている。春になったとはいえ、朝靄の残る時間はまだ肌寒いだろう」
冬馬はごく自然な動作で、自分の首元からあたたかなショールを解くと、彩音の肩へとそっと掛け直した。
彼が好む洋煙草のほろ苦い香りと、上質な石鹸の匂いが、彩音の鼻先をくすぐる。
(いつも、優しい冬馬さん...)
無駄な感情を見せない彼だからこそ、自分だけに向けられるその無意識の慈しみが、どれほど深く彩音の胸を高鳴らせるか、冬馬は知る由もない。
「……ありがとうございます。冬馬さんは、寒くはありませんか?」
「これくらいでは風邪は引かないよ」
短く答えた冬馬の横顔は、やはりどこかすっと澄んでいて、付け入る隙がない。けれど彩音の手を車に乗せる時の添え手や、歩幅を合わせる優しさは徹底している。
(冬馬さんにとって、私は守るべき『お隣の妹』に過ぎないのかしら……もしかして冬馬さんも....)
彩音は胸に広がる淡い期待と切なさを押し殺し、名家の令嬢としての気品という鎧で隠しながら、いつもの完璧な笑顔を浮かべた。
二人が乗り込んだ車が、静かに帝都の街並みへと走り出す。
格子戸の向こうで手を振る使用人たちの姿が遠ざかり、初春の朝靄のなかでお互いの吐息が白く揺れていた。
変わらない朝の風景。変わらないお隣同士の温もり。
けれど、この心地よい距離感がどれほど脆く儚いものかを、この時の二人はまだ知る由もなかった。




