14.避暑地
深緑の木々に包まれた軽井沢の楠木家別荘。
朝晩の涼風が心地よい避暑地での滞在は、賑やかな帝都大学サロンの面々を迎えて数日が過ぎていた。
木漏れ日が差し込む午後のテラス席。ティータイムの最中、彩音の指先から、うっかり小さな銀のスプーンが滑り落ちた。
甲高い音を立てて木床に転がったスプーンに焦り、彩音が思わず屈み込もうとしたその時——。
「動くな。着物の裾を汚す」
低く落ち着いた声とともに、冬馬がスッと身をかがめた。
テーブルの角に頭をぶつけそうになっていた彩音の肩をそっと手で制しながら、冬馬は手際よくスプーンを拾い上げる。そして、自らポケットから取り出した清潔なハンカチで彩音の指先を包み、飛び散った紅茶の水滴を優しく拭い去った。
その手つきの繊細さと、幼い頃のように手慣れた甘やかすような眼差し。
「……冬馬さん?」
「お前は昔から、焦ると周りが見えなくなる。……スプーンを替えさせるから、待っていろ」
いつもの冷淡な態度とは違う、幼馴染としての深い愛着を感じさせる距離感に、彩音は息を呑んだ。
そして、その光景をじっと見つめていた桜の瞳が、ふっと冷たく細められる。常に余裕を崩さない華やかな華族令嬢・桜の胸に、激しい嫉妬の炎が揺らめいた瞬間だった。
◇
その日の夕方。
沈みゆく夕日に染まる別荘のバルコニーで、桜は冬馬と二人きりで佇んでいた。
断髪を風に揺らしながら、桜は少し身を乗り出すようにして冬馬の顔を覗き込む。
「冬馬様。今夜の夕食の集まりの後、少し二人で抜け出しませんか?……あなたと静かに、星を見たいのですわ」
鈴を転がすような甘い声でそう囁き、桜はすっと冬馬の袖口に白く細い手を絡めた。
冬馬もまた、拒むことなくフッと口角を上げ、彼女の言葉に静かに耳を傾けている。洗練された二人の佇まいは、まるで一枚の挿絵のように美しく、お互いに心を許し合っているかのように見えた。
本館の渡り廊下から、その光景を偶然目にしてしまった彩音。
胸の奥がキュッと締め付けられ、冷たい寂しさが広がっていくのを免れなかった。
(……やはり、冬馬様の隣が似合うのは、桜様……)
寂しさを振り払うように、彩音は静かに自室へとを戻った。
◇
夜が更け、サロンの仲間たちがそれぞれの部屋へ引き上げ、別荘全体が静寂に包まれた頃。
彩音は一人、ひんやりとした夜気が満ちる一階のテラスに出ていた。
帝都を出る前に、結城から届いた手紙。
『そろそろ別荘へ向かわれる日が近いですね。正直、嫉妬もいたしますが、君が羽を伸ばして楽しめる旅になることを願っております。戻ったらまた何処かに出かけよう。避暑地での土産話しを楽しみにしています』
そんな健気で大人びた言葉を思い返し、彩音は寂しさを紛らわせるように深く息を吐いた。
その時——。
サッ、サッ……
庭の深い草むらを踏みしめる、確かな足音が近づいてきた。
驚いて身を乗り出した彩音の目の前に、闇の中からすっと現れたのは——濃紺の軍服を纏い、肩を軽く上下させて息をきらした結城の姿だった。
「……結城様……!? なぜ、ここに……」
手紙では「楽しんで来て」と書いていたはずの彼が、まさかこんな夜更けに、お忍びで軽井沢までやってくるなんて。
呆然と立ち尽くす彩音に、結城は少し気まずそうに、けれど誤魔化しのない真っ直ぐな熱を帯びた瞳で見つめ返してきた——。




