13.陸軍大学校
楠木邸でのお茶会から数日後の午前。
東條家の本館にて、彩音は両親からひとつの文箱を託されていた。
「彩音。藤枝殿のお父上から頼まれていた大切な古文書と、ご実家へのお礼の品だ。陸軍大学校の近くまで用事があるのだろう? 帰りに藤枝殿へ直接届けておくれ」
「はい、お父様。確かにお預かりいたします」
両親からの言いつけを胸に、彩音は車に乗って帝都の郊外に位置する陸軍大学校へと向かった。
校門の受付で使いを頼むと、しばらくして重厚な校舎の奥から賑やかな足音が近づいてきた。
「彩音! どうしたんだ、こんなところで」
驚きと喜びの混じった声とともに姿を現したのは、濃紺の制服を隙なく纏った結城だった。そしてその背後には、同じ制服を着た威勢の良い陸大生たちが数人、ぞろぞろとついてきている。
「ごめんなさい、お忙しい時間に。お父様とお母様から、結城様へお渡しするようにと託されまして……」
文箱を丁寧に差し出す彩音。結城が「わざわざ済まない」と受け取ろうとしたその瞬間、後ろの学友たちがニヤニヤと笑いながら結城の肩を小突いた。
「おいおい結城! なんだその鼻の下を伸ばした顔は!」
「噂の東條家のお嬢様か? お前、こんな綺麗な方を隠していたのかよ!」
「陸大一の石頭が、急に目尻を下げてどうしたんだ!」
次々と飛び交う学友たちの親しげな冷やかしに、普段は理知的な結城の顔が一瞬でカッと赤くなった。
彩音もまた、予期せぬ歓待と視線に恥ずかしさで頬を真っ赤に染め、俯いてしまう。
「……黙れお前たち! 彩音が困っているだろうが!」
結城が怒鳴るように一刀両断すると、周囲からは一層大きな歓声と笑い声が上がった。
厳格な陸軍大学の中で、結城が仲間たちから深く信頼され、その中心で愛されていることが、その賑やかなやり取りから伝わってきた。
ひとしきり冷やかして満足した学友たちが「じゃあな、お邪魔虫は去るぞ!」と去っていくと、二人きりになった校門近くの木陰に、心地よい静寂が戻ってきた。
結城は少し気まずそうに咳払いをすると、真っ赤になった顔のまま、けれど愛おしそうに彩音を見つめた。
「……すまない、あいつら騒がしくて。だが……」
「はい……?」
「あいつらに、君を見せられてよかった。俺の自慢の……大切な人だからな」
ぽつりと、けれど力強く紡がれた結城の言葉に、彩音の胸はドクンと激しく跳ね上がった。
「結城様……」
胸の鼓動を落ち着かせるようにそっと手を添えながら、彩音はふと思い出したように本題を切り出した。
「あの……結城様。実は近々、兄や冬馬さん、それから大学のサロンの皆様と軽井沢の別荘へ避暑に行くことになりましたの」
結城の眉が、ほんの少しだけ驚きに跳ね上がった。
「……楠木殿の、別荘へ?」
「ええ。須藤桜様という華族のお嬢様が、提案されまして……。少し、賑やかになりそうですわ」
冬馬の名が出たことで、結城の瞳に一瞬だけ複雑な陰りが掠めた。自分は訓練があり、同行することはできない。他の男たち——特に、彩音の幼馴染である冬馬のそばへ彼女が行ってしまうことへの、静かな独占欲と焦燥。
だが、結城はすぐに深呼吸をし、眉根を寄せていた顔をふっと和らげた。彩音の手をそっと優しく包み込む。
「……そうか。急なことで驚いたが……君が帝都の喧騒を離れて、羽を伸ばせるならそれが一番だ」
「結城様……?」
「正直に言えば……少し嫉妬もする。だが、君にはたくさんの笑顔でいてほしい。……楽しんできてくれ、彩音」
自分の嫉妬すら隠さず、それでいて彩音の時間を一番に尊重してくれる、まっすぐで優しい言葉。
冬馬のお茶会で感じていた微かな寂しさは完全に消え去り、彩音の心は結城への愛おしさと確かな信頼で満たされていくのだった。
「……はい! ありがとうございます、結城様」
木漏れ日の中、彩音は満面の笑みで頷いた。




