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第8話 ほどくだけでは、帰せない

切られた糸は、三本だった。

 術式の端と端を結ぶ、大切な三本。

 代わりに、銀糸が、国の紋章を描いていた。


「新しい糸でつなげませんか」


 技師に訊かれ、私は首を振った。


「受入布と同じ組の糸でなければ、つながりません。門を失った二枚の布には、これしか道がないんです」


 普通の補修糸で、形だけは繕える。

 でも、それは別の術式になる。

 私は元の布の流れを読めるだけで、二枚を対にした魔術を新しく作れない。

 この制約は、レオン様にも説明していた。


 彼は、落ち着いていた。


「コートの余った糸は、使えるか」

「はい。ただ、保護に使われている部分を抜くことはできません」


 私は、母親の材料表を開いた。

 縫い代と、折り返しの寸法。

 使った長さ。

 余った長さ。


「裾の折り返しに、未使用の端糸があります。これを抜いて、出口を修復します」


 黒い裾を開く。

 糸を一本、測って抜く。

 足りない。

 もう一本。

 まだ足りない。


 私は、コートの端を押さえた。

 ここから先は、魂を包んでいる織り目だ。

 取ってはいけない。


「あと、四指分です」


 糸を並べると、足りない場所は、そんなに小さかった。

 でも、小さいからといって、欠けたままでいいわけではない。


 サイラスさんが、私の箱を持ってきた。

 私の修繕控え。

 半年前の作業図。


「返した時、この端は二重に折りました」


 私は、図を指した。

 裂けた部分が広がらないように、白い旗の下端を細く折り込み、仮留めにした。

 新品の補修糸は、外側。

 元の白い糸は、その内側に残っている。


「自分の二針を、ほどきます」


 鋏で、小さく切る。

 折った布が開いた。

 白い糸が、現れる。


 私は、それを支えた。

 劣化して、毛羽立っていた。

 短いけれど、使える。


「足ります」


 言った瞬間、膝から力が抜けた。

 レオン様が椅子を寄せ、私を座らせる。


「水を飲め」

「今、見つかったところです」

「見つかった糸は、水を飲む間に逃げない」


 オルトさんが、窓辺で笑った。

 私も、笑ってしまった。

 六年分の絶望を、今夜一晩で抱え直す必要はない。


 作業は、二段階に分けた。

 まずコートの弱った部分を、残っている同じ糸で横から支える。

 小さな場所で流れを確認する。

 それから白い旗の出口をつなぐ。

 二枚が反応し、出口へ流れ始めた後で、最後の灰色の糸を外す。


 白い布には、受け止める人の声に応じて帰還を支える術式も残っていた。家族でなくても、その人を知り、迎えたいと思っている人の声。

 出口にいる間は、触れることもできる。けれど、生命を取り戻すものではない。お別れの後に光が消えれば、そこまでだ。

 私たちはそのことも、来てくれる人たちに説明した。会いたくても今は耐えられないという人には、手紙を預かった。


 技師が、私の手順を書き留めた。

 途中で中止する条件も、決めた。

 コートの名前が薄くなる。

 白い布の端から光が外へ漏れる。

 そんな時は、灰色の最後の結びを残したまま、作業を戻す。


 私は、白い糸を針へ通した。


 明け方に、一度、針が滑った。

 指先に、小さな赤い点。

 私は、布に血を落とす前に手を引いた。


「休憩です」


 自分で言った。

 レオン様が、大きく息を吐いた。


「助かる」


 傷を洗い、薄い布を巻く。

 彼は、私の手を取ろうとして、また止まった。

 胸が、少し痛くなる。

 私は、毛布の端を持って、彼へ差し出した。


「布越しなら、触れます」


 彼が、毛布の向こうから、私の手を包んだ。

 体温は、分からない。

 でも、力は分かった。

 大きい手だった。

 傷のある指を、避けてくれていた。


「宿で言ったことを覚えているか」

「仕事が終わっても、いていいというお話ですか」


 彼は、うなずいた。


「それを、終わる前に言っておきたかった」


 私は、毛布の向こうの指を、握り返した。


「終わったら、もう一度訊きます」

「ああ」


 依頼の報酬と、好きになる気持ち。

 その二つを、同じものにしたくなかった。


 朝、白い旗の上に、細い光の輪ができた。

 出口が、つながった。


 私は針を置いた。

 窓の外には、式典の鐘を待つ人たちが集まり始めていた。

 勝利を祝うための旗が、今日、別の役目を取り戻す。

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