↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/10

第2話 呪いの名前は、防寒でした

「三十一人いる」


 辺境伯は、暖炉からいちばん遠い椅子に座った。

 自分の霜が、火を弱めると知っている人の座り方だった。


「六年前の、北門の事故だ」


 アシュベルの北には、大きな魔術門がある。

 戦争中、そこを通じて山向こうの村から住民を避難させた。

 最後の一団が通過している最中に、門が閉じた。

 閉じた門の間にいた三十一人は、どちら側にも出られなくなった。


「死んだのですか」

「肉体は失われた。だが、門の中に意識が残った」


 辺境伯の母は、術衣の職人だったという。

 そのコートは、門で遭難した人の魂を一時的に引き受け、寒さから守るために作られた。

 亡くなる前の母が、戦地へ行く息子に渡した。


「俺は、それで彼らを受け取った。門を使って故郷へ送り届けるはずだった」

「でも、送れなかった」

「門が封鎖された。事故調査が済むまで、触れるなと」


 それから六年。

 私も王都で、その事故の話を聞いたことがある。

 全員の避難は完了した。

 ただ、門の暴走で辺境伯だけが呪われた。

 英雄をいたわろう。

 そういう話だった。


「三十一人のことは、報告したのですか」

「何度も。コートの文字を写した名簿も提出した。宮廷からは、術衣に残った記録にすぎないと返された」


 本人が、確かにそこにいると訴えている。

 それでも認めなかった人がいる。

 私は、箱から糸切り鋏を出した。


「一か所だけ、調べさせてください。切る前には説明します」


 彼は私の鋏を見た。

 小さい刃だった。柄に、細かな傷がある。

 父はそれを、貧乏臭いと笑った。


「ほどいたら、消えるのか」

「本体の術式を切れば、そうなる恐れがあります。今、触れたいのは、上から足された糸です」


 薄い灰色の縫い糸。

 元の青い裏地にはない、粗い返し縫い。

 冷気は、その結びからこぼれていた。


「補修を頼んだことは?」

「五年前に、宮廷の術衣工房へ持ち込んだ。今より悪かった。何か直せるかと」

「何と言われましたか」

「安定させた。ただし、もう誰にも触らせるな」


 その後も、彼は別の職人を探した。

 けれど宮廷の管理品に、無断で手を加えれば工房の認可が取り消される。紹介された職人たちは、作業を断った。

 断った人を責めることも、彼にはできなかった。

 私はその話を聞いて、契約書に必要な条件をもう一つ書き留めた。作業の正式な許可を取る。それまで、すぐに戻せない工程には進まない。


 私は灰色の糸の向きを、紙へ写した。

 元の術式は、預かった人を温める。

 上から足された術式は、その熱を外へ捨てる。

 そこだけ、流れが逆だった。


「これは補修ではありません。熱の逃げ道を、わざと作っています」


 彼の手が、椅子の肘掛けを握った。

 怒りのせいだけではない。希望に耐える顔だった。


「一針だけ、切ります。霜が増えたら、すぐ戻します。縫い直す位置は写しました」

「頼む」


 執事に、湯と毛布を用意してもらう。

 私は窓を閉め、手の震えが止まるまで待った。

 鋏の先を、灰色の輪へ差し込む。


 ぷつ。


 小さな音だった。

 霜が、止まった。

 黒い肩に積もっていた白い粉が、ゆっくり水になる。


「……寒く、ない」


 辺境伯は、そう言った。

 その声を聞いて、執事が壁を向いた。


 私は笑おうとしたけれど、うまくできなかった。

 六年。

 この人は六年、夜も昼も凍えていたのだ。


 まだ全部の糸は切れない。

 ほかの場所とつながっている。大きく動かせば、魂を守る元の布まで壊してしまう。

 けれど、調べられる。

 直せるかもしれない。


「雇ってください」


 私は言った。


「花嫁としてではなく、修復士として」


 辺境伯が、目を上げた。

 冬の湖みたいな色だった。


「仕事の説明を聞いて、それから私が引き受けるか決めます。お給料も相談させてください」

「いくら必要だ」

「まず、最低額を訊いてはいけません。そこから交渉が始まるんです」


 今度こそ、執事が笑った。

 辺境伯は困った顔で、でも、少しだけ口元を緩めた。


「レオンだ」

「はい?」

「俺の名前だ。契約書には、レオン・アシュベルと書いてくれ」


 私は紙を引き寄せた。

 初めて、この家で自分の名前を書く。


 イネス・ファロン。

 修復士。


 その二つを並べるだけで、胸が熱くなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。