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第1話 花嫁より先に、修復士が来ました

「まずは、そのコートを脱いでください」


 辺境伯は、しばらく私を見ていた。

 玄関の大時計が、三度鳴った。


「……会って、三分だが」

「承知しております。ですが、そのままでは死にます」

「俺が?」

「コートが」


 辺境伯の後ろで、老執事が咳き込んだ。

 笑ったのだと分かったのは、口元を袖で隠したからだ。


 黒いコートは、立派なものだった。

 銀の留め具。肩から裾へ続く魔術刺繍。冬の空のように青い裏地。

 そして、左脇の縫い目から、際限なくこぼれる白い霜。


 部屋は暖かい。私が着ている薄いドレスでも、寒くはない。

 なのに、その人の周りだけ冬だった。


 私の名前は、イネス・ファロン。二十一歳。

 今日、実家を捨てられた。


     *


「魔力もないくせに、家の恥を増やすな」


 今朝、父が私に言った。

 机の上には、破れた婚約証書があった。

 私の元婚約者、宮廷魔術師ロドルフは、父の隣で妹の肩を抱いていた。


「術式を切るだけの能力では、宮廷に置いておけない。エルナなら、俺の仕事を支えられる」


 妹は目を伏せた。

 その手首には、私が二日前に繕った護りの腕輪。

 切れかけた結びをつなぎ直したことは、誰にも言っていない。


「直せるものを、わざと切って見せたと聞いている」

「切らないと、直せない場所もあります」

「言い訳はもういい。アシュベル辺境伯のところへ行け。花嫁を探しているそうだ」


 探していたのは、六年前までだ。

 呪われた辺境伯に触れた娘は、その場で凍りつく。

 そんな噂が広まってから、縁談は途絶えていた。

 父はわざわざ、その噂も教えてくれた。


「お前のような娘でも、向こうなら欲しがるだろう」


 だから私は、父の机に手を置いた。


「婚約解消の届出と、持参品の目録をください」

「……何?」

「道具箱は、私の給与で買ったものです。置いていきません」


 涙は、馬車に乗ってから出た。

 言い返せたからといって、二十一年分の寂しさが消えるわけではない。

 膝の上の箱を抱いて、泣いた。

 泣きながら、針が錆びないように、蓋はきちんと閉めた。


 私は、前世では染織品の修復をしていた。

 博物館の古い旗や、持ち主を失った晴れ着を、少しずつ直す仕事。

 病気で亡くなって、この世界に生まれ直した。


 派手な魔力はない。

 できるのは、布に組まれた魔術の糸を見ることと、その糸をほどくこと。

 糸に触れれば、縫い込まれた文字も読み取れる。

 人の頭の中は読めないし、何もないところに魔術を生み出せない。

 壊れた織り方を調べ、元の糸を使って組み直す。

 そんな地味な手間を、この国では「糸切り」と呼んだ。


 馬車がアシュベル邸に着いたのは、日が落ちる頃だった。

 出迎えた辺境伯は、私の紹介状を読んで眉を寄せた。


「花嫁を寄越してくれと頼んだ覚えはない」


 やっぱり。

 私は道具箱を持ち直した。


「では、帰りの馬車を手配していただけますか。王都で仕事を探します」

「今夜は泊まれ。道が凍る。明日の話は、明日聞く」


 その言い方はぶっきらぼうだった。

 でも、私の腕から荷物を奪おうとはせず、先に扉を広く開けてくれた。

 その時、黒い裾が翻った。


 私は息を止めた。

 裏地の中に、細い光が見えた。

 一つ、二つ、三つ。

 刺繍ではない。縫い込まれた名前だった。


 胸の内側だけ、糸が無理に絞られている。

 布が歪み、魔術の流れが折れ、その折れたところから霜が漏れていた。


 それで、私は言ったのだ。

 まずは、そのコートを脱いでください、と。


 辺境伯は笑わなかった。


「脱げない」


 静かな声だった。

 さっきの困惑とも違う。


「この中に、まだ人がいる」


 私は、もう一度裏地を見た。

 いちばん端の名前に、触れる。

 古い糸が、指先に震えた。


 ネリ。八歳。


 名前の下に、もっと小さな文字があった。


『帰る時は、手をつないでね』


 花嫁の話をする場合では、なくなった。

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