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第10話 そのコートを着て、迎えに来てください

呪いが解けた日、レオン様は熱を出した。

 六年間の疲労と、睡眠不足と、張り詰めていたものがほどけたせいだと、医師は言った。

 寝台に横たわる彼を見て、私は、椅子を引き寄せた。


「仕事がある」

「今日は、寝るのがお仕事です」

「監査院へ」

「サイラスさんが書類を持っていってくださいました」


 彼は、目を閉じた。

 私が茶を淹れると、また開ける。


「砂糖は」

「一個です」

「……俺のも、一個でいい」


 私は笑って、二人の茶碗を並べた。


     *


 その後の調査で、北門に使われていた魔術核が、発注品とは別物だったと分かった。

 避難者を通すのに必要な容量がなく、門は途中で止まった。

 ベルク伯爵の決裁と、納入業者の控えが、異なっていた。

 差額の行方も、調べられることになった。


 事故の後、伯爵は全員が避難したと報告した。

 三十一人は北門へ到着しなかったことにされ、別の場所で亡くなった人の名簿へ移されていた。遺族の問い合わせも、その記録に沿って処理されていた。

 レオン様が名簿を送っても、残留記録だとして認めなかった。

 白い幕を保管しながら、焼却したと記した。

 コートへの細工は、当時の工房長が命じられて行ったものだった。

 保護を弱めたことを知らなかったという主張は、職人の作業書に残る警告と矛盾した。


 旗と、糸と、書類。

 それぞれ違う場所に残ったものが、同じ嘘を示していた。


 伯爵は、大臣の職を解かれた。

 事故の隠蔽と公金の扱いについて、裁判で責任を問われることになった。

 王家は遺族への説明と補償の窓口を設け、門の管理方法も改めると発表した。

 それで六年が返るわけではない。

 ロザさんは、そう言った。

 私も、そう思った。


 ロドルフは、私の修繕控えを見ながら返書を書いたことを認めた。

 白い旗が同じ布である可能性を知っていたのに、焼却済みだと断定した。

 父親の報告を疑わせたくなかったのだという。

 宮廷での職務から外され、その関与の範囲を調べられている。

 私の仕事を自分がしたと報告していた件も、支払記録と一緒に訂正された。


 父は、私を工房の代表として紹介したいと手紙に書いてきた。

 私は断った。

 これからの私の仕事は、私が決める。

 それだけの返事にした。


 エルナからは、別の手紙が届いた。

 婚約は解消した。

 新しい工房へ見習いとして入るため、採用試験を受ける。

 父が、自分の名で紹介してくれると言ったけれど、今回は自分で受けたい。


 最後に、こんなことが書いてあった。


『ほどいた糸を、どうして捨てずに取っておくのか、今なら少し分かる気がします』


 私は、返事を書いた。

 必要なら、作業記録の書き方は教えられる。

 姉だからではなく、先にその仕事をしていた人として。


     *


 春、私はアシュベルの町に、小さな工房を借りた。

 屋根の雨漏りを直してから、机を置いた。

 布を広げられる、大きな机。

 窓には、光をやわらかくする薄い幕。

 看板は、私が書いた。


 イネス修復工房。


 初めての客は、ロザさんだった。

 娘の古い肩掛けを、持ってきた。


「売れるものじゃないけど」

「売るためでなくても、直していいんです」


 彼女は、少し笑った。

 私も笑った。

 魔術のない、普通の布だった。

 普通の針で、ゆっくり繕った。


 レオン様は、仕事帰りに寄るようになった。

 毎回、何かを持ってくる。

 温かいパン。

 町の菓子。

 ある日は、木の椅子。


「自分が座るものも、必要だと思った」


 私は、入口の横に置いた。

 工房へ来ることを、もう仕事の理由でごまかさない人だった。


 夏の前に、あのコートの修復が終わった。

 呪いとして足された糸は、証拠の標本にした。

 役目を終えた保護術式は、技師と確認して眠らせた。

 元の刺繍は、残した。

 青い裏地の隅には、三つの結びも残っている。


 それを着ると、彼は、少し居心地が悪そうに肩を動かした。


「軽い」

「服ですので」

「前は、鎧より重く感じた」


 彼は、袖を見た。

 私が補ったところを、指でなぞる。


「ありがとう」


 私は、うなずいた。

 いつも通り、報酬の精算書を渡す。

 彼は確認し、署名した。

 これで、最初の依頼は終わった。


「それで」


 私が言うと、彼は顔を上げた。


「仕事が終わっても、いていいというお話。もう一度、訊いてもいいですか」


 彼は、机から書類をどけた。

 私の目を、まっすぐ見た。


「いてほしい」


 暖かな声だった。


「修復士としてでなく?」

「修復士であることも含めて、お前が好きだ。仕事をやめてほしいとは思わない」


 私は、針を針山へ戻した。

 こんな時にも、仕事の道具は、きちんとしまいたかった。


「私も、あなたが好きです」


 彼は、少し息を止めた。

 いつもの困った顔をする。


「……ここまで言って、怖くなった」

「私もです」

「失敗したら、直してくれるか」


 私は、首を振った。


「人は、私一人では直せません。嫌だったことを言うので、聞いてください。あなたも、言ってください」


 彼は、うなずいた。


「分かった」


 砂糖を一個にした時と、同じ返事だった。

 大きな約束より、私は、その返事を信じられた。


「イネス。結婚してほしい」


 彼は、飾りのない小さな箱を置いた。

 中には、銀の指輪。

 あの日の糸切り鋏と、よく似た色だった。


「すぐに返事をしなくてもいい」

「したいです」


 私は、彼の手を取った。


「はい。結婚します」


 彼の顔が、ゆっくり変わった。

 私は、自分の返事が、この人をこんなにうれしくできることを、初めて知った。


 指輪が、私の指へ通る。

 彼は、手を離さずに訊いた。


「抱きしめても?」

「はい」


 青い裏地が、目の端に見えた。

 冬の空みたいな色。

 でも、この人の腕の中は、もう冬ではなかった。


     *


 秋の結婚式に、レオンは、あのコートを着てきた。

 私は、新しく縫った白い服で、工房の扉を閉めた。

 式が終わったら、また開ける。

 花嫁になっても、私の机は、私の場所だった。


 サイラスさんが、馬車の扉を開ける。

 ロザさんは、広場で売っている花を持って待っていた。

 エルナも来た。見習いの給与で買った、針の包みをくれた。

 父は呼ばなかった。

 今日は、父に認めてもらうための日ではない。


 レオンが、私の前へ立つ。


「支度は?」

「できました」


 私は、彼の襟を、一度だけ直した。

 もう、霜は落ちない。


「今日は、脱いでくださいと言わないのか」


 私は、笑った。


「着て、迎えに来てほしかったんです」


 彼も笑った。

 初めて会った日に、見たかった顔だった。


 この人の母親が、守ってほしいと縫った服。

 この人が六年間、約束を守り続けた服。

 私が直し、この人が自分の意思で着た服。


 肩を並べて、馬車へ向かう。

 指先に、あたたかな手が触れた。


 役に立ったから、連れていかれるのではない。

 私が行きたいから、一緒に行く。


 黒いコートの裾が、秋の風に揺れた。

 その隣で、私の白い服も、揺れた。


 完

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