第8話 当たり前の日々
気が付くと、空は赤い色に染まり始めていました。
「もうすぐ夕方だね。あっという間だったな……」
ウンディーネが寂しそうに呟きます。
「明日もあるじゃないか。明日はまた別のところに行こう」
そう言ってアルベルトはウンディーネの隣に並び、また手を差し出します。
「さ、早く屋敷へ戻ろう。またじいに小言を言われてしまうよ」
アルベルトはそう言うと再びウンディーネの手を取り、特に気にする様子もなく屋敷へ向かって歩き出しました。
屋敷へ着く頃には辺りは薄暗くなってきており、建物の灯りが幻想的な景色を作り上げていました。
「かなりギリギリですな。まあ、日が暮れる前には戻ってこられたので、良しとしましょうか」
じいが入り口で待ち構えており、アルベルトに向かってチクリとそう言うと、二人に屋敷へ入るように促します。
「結局小言は言われてしまったね」
じいに聞こえないように、アルベルトが小声でウンディーネにささやきます。その表情は、まるでイタズラがバレた少年のようでした。
「さあ、二人とも。お食事の用意はできておりますぞ」
じいに言われるまま、食卓がある奥の部屋へ進みます。
「あれ?父様はいないのか」
「旦那様は周辺の視察のため、しばらく戻られないそうです」
「そうか、まあちょうどよかったかな」
アルベルトはそう言って、ウンディーネに微笑みます。ウンディーネは話の意味がよく分からず、アルベルトとじいの顔をキョロキョロと交互に見ていました。
二人はその後、メイドに椅子をひいてもらい、向かい合わせに座ると、様々な料理が運ばれてきました。
「じい、今日の料理はずいぶん緑色が多いね」
「森の素材をふんだんに使わせていただきました。馴染みのあるものも多いので、ウンディーネ様のお口にも合いますでしょう」
「……!あ、ありがとう……」
じいの気遣いを、ウンディーネは心から嬉しく感じました。
早速、アルベルトの見様見真似でフォークを握り、料理を口に運びます。
「ところでウンディーネ、今日はどうだった?」
「うん! 楽しかったわ! こんなに楽しかったの初めて!」
「そうか。それならよかった」
アルベルトは嬉しそうに笑います。
「明日はどこへ行くの?」
「そうだな……ウンディーネは、どこへ行ってみたい?」
「うーん……。アルベルトと一緒ならどこでも!」
「そう言われると困ったな……」
アルベルトは口元に手を当てて、何かいい場所はないか考えます。
「あ……ごめんなさい。何も特別なことをしてくれなくていいの。アルベルト達が普段どうしているのか、当たり前を知りたいの」
「当たり前……か」
アルベルトは少し考えるように呟きました。
「それなら、明日はいつも通りに過ごしてみるかな」
「いつも通り?」
「うん。僕が普段していることを、ウンディーネも一緒にやってみるんだ」
「いいわ! 面白そう!」
ウンディーネは嬉しそうに笑いました。
翌朝――。
ウンディーネはアルベルトと一緒に朝食をとりました。
昨日までなら、朝に何かを食べることさえ珍しいことだったでしょう。
けれど今では、アルベルトの向かいに座ることが少しずつ当たり前になっていました。
朝食を終えると、二人は屋敷の庭を歩きました。
アルベルトはウンディーネに、庭に咲く花の名前を教えたり、庭師が手入れをしている場所を見せたりしました。
「この花はなんていうの?」
「それは……えっと、なんて言ったっけな……」
「アルベルトでも知らないことがあるのね」
「僕だって何でも知っているわけじゃないさ」
そんな他愛のない会話をしながら、二人は庭を歩いていました。
また別の日には、アルベルトが普段している仕事を見せてもらいました。
机の上にはたくさんの紙が並んでいます。
「これは何?」
「町の人たちから届いた報告だよ。畑の様子だったり、困っていることだったりね」
「アルベルトはいつもこれを読んでいるの?」
「そうだね。これからは僕も、父様の仕事を今以上に手伝うことになるからね」
ウンディーネは、アルベルトが真剣に書類に目を通している横顔を、じっと見つめていました。
湖から眺めているだけでは知ることのできなかった、人間の暮らし。
それを支えている人たちの姿を、ウンディーネは少しずつ知っていきました。
アルベルトと町へ出かける日もありました。
市場で買い物をしたり、道端で店の人と話をしたり。
屋敷へ戻れば、食卓を囲みながら今日あったことを話しました。
特別なことは何もありません。
アルベルトにとっては、ウンディーネがいること以外、いつもと変わらない日常です。
それでもウンディーネにとっては、そのすべてが新鮮で興味深く、楽しいものでした。
そして一日の終わりには、アルベルトと今日あったことを話しました。
「今日も楽しかったかい?」
「うん。明日は何をするの?」
「明日は……そうだな――」
そんな会話を繰り返しているうちに、時間はあっという間に過ぎていきました。
気がつけば、ウンディーネが人間の身体を手に入れてから、数日が過ぎていました。
その日の夕方。
アルベルトはテラスで空に薄く浮かぶ月を見上げながら、ふと呟きました。
「……もう、残りあと五日くらいか」
「何の日数?」
ウンディーネがアルベルトの側により、首を傾げます。
「満月まで。君がニクスとした約束の日だよね」
「あ、そうね……」
ウンディーネも同じ空を見上げました。
「でもまだ五日もあるわ」
そう言って、ウンディーネは笑いました。
アルベルトも微笑みを返します。
夜の静けさの中、二人の間には穏やかな時間が流れていました。
そして、明日もまた一緒に過ごすことを疑っていませんでした。




