第3話 色付く景色
月明かりの下、ウンディーネは湖岸に立つ一人の青年を見つめていました。
初めてちゃんと見る、人間の姿。
森で見たときは、黒狼に襲われていることばかり気になって、彼の姿をゆっくり見る余裕などありませんでした。
けれど今は違います。
月の光に照らされた彼の姿を、ウンディーネはじっと眺めています。
さらりとした栗色の髪に、少し日焼けしているものの、新鮮な果実のように艶やかで瑞々しい肌。すっと通った鼻筋に、穏やかな光を宿した茶色い瞳。
すらりと伸びた腕は、どこへでも伸ばせ、しっかりと大地を踏みしめる二本の足は、一歩踏み出せばどこへでも行ける。アルベルトの姿こそが自由そのもののように見えました。
精霊であるウンディーネには、人間の顔立ちについてはよく分かりませんが、それでもアルベルトを見て、なんて綺麗なんだろうと思いました。
近くで見る事ができて、ウンディーネは嬉しくて嬉しくてたまりません。
――本当に、また会えた。
「アルベルト?」
自然と言葉が漏れました。
「は、はい。ウンディーネ様……」
アルベルトは緊張した様子でそう言うと、その場でひざまずき、祈りの姿勢をとって言います。
「先日は……、危ないところを助けていただき、ありがとうございました。こ、こちらはお礼の……あ、あれ?」
アルベルトは急に立ち上がると、自分の身体のあちこちを触ったり服に手を突っ込んだりして何かを探しています。
「しまった……」
どうやらアルベルトは、ウンディーネへお礼の品物を用意していたようですが、シルフ達に急に連れてこられたのもあって、部屋に忘れてきてしまったのでした。
「ウンディーネ様すみません、また必ずお持ちします」
「ウンディーネサマ……?私はウンディーネよ」
「え?あ……はい、ウンディーネ。すみません」
バツが悪そうにしているアルベルトを、ウンディーネはじっと見つめます。
「あ、あの……どうしました?」
「ううん。そんな事より、人間のこと教えてよ!シルフ達から色々聞いてはいるんだけど、人間から直接聞いてみたかったの!」
ウンディーネがそう言うと、それを聞いたアルベルトは驚きと戸惑いが入り混じった表情で目を瞬かせます。
「え?そ、そんなことでよければ……」
「本当?じゃあ……」
ウンディーネは顔に手を当てて考えます。
なにせ聞きたいことは、たくさんあります。
町にはどんなものがあるのか。
人間は何を食べるのか。
どうやって暮らしているのか。
一体何から聞いていこう?
ウンディーネは、色々と考えを巡らせた末に口を開きます。
「アルベルトは、普段何をしているの?」
「わ、私ですか?」
「うん」
まさか自分のことを聞かれるとは思わなかったのでしょう、アルベルトは少し驚いてしまいました。
人間のことを知りたいと、そう思っていたはずなのに。
ウンディーネはいつの間にか、アルベルト自身のことを知りたいと思っていました。
それがどうしてなのか、ウンディーネにはまだ分かりません。
アルベルトは、自身の事を色々とウンディーネに教えてくれました。
町の領主の息子であり、ゆくゆくは自分が後を継ぐ事。
執事のじいが過保護で困っている事。
「僕のこと未だに『お坊ちゃま』って言うんだ。子どもの頃から扱いが全然変わらない」
「うふふっ!そうなんだ!」
アルベルトにとってはどんなに他愛もない出来事でも、ウンディーネにとっては全てが新鮮でした。
「ウンディーネはいつからこの湖にいるの?」
今度はアルベルトがウンディーネに尋ねます。
「いつからだろう……。気がついたらここにいたの」
「そうなんだ。空気も澄んでいて、いい場所だね」
「私は毎日のことだから分からないわ」
ウンディーネが少し寂しそうにするので、アルベルトはまずい事を言ってしまったと後悔しました。
「……」
「……?」
ウンディーネはアルベルトが何を言うのかじっと待ち構えます。しかしアルベルトにとっては気まずい沈黙に感じられました。
「……ウンディーネは――」
勇気を出してアルベルトが何かを言いかけたその時、町の方からゴーンゴーンと鐘の音がかすかに聞こえてきました。
気が付くと、辺りはずいぶん明るくなっています。
「まずい!じいが起きてしまう!ウンディーネ、また来るよ!」
「うん!約束だよ!待ってるから!」
アルベルトはウンディーネに向かって、手を振りながら走り去っていきました。
「『一度だけ』って言ってなかったっけ?」
「また人間と会うの?」
シルフ達がタイミングを見計らったように飛び出てきて言います。
「アルベルトが『また来る』って言ってくれたから」
照れたように笑いながらウンディーネが答えます。
「ああ……次はいつ来てくれるんだろう、アルベルト」
ウンディーネはそう言って、町の方をいつまでもいつまでも眺めていました。
アルベルトの姿が森の向こうへ消えていき、ついさっきまで聞こえていた足音も、もう聞こえません。
湖には再び、静けさが戻ってきました。
いつもと変わらない湖。
それなのに今のウンディーネには、つまらないと思っていたこの景色が、鮮やかに色付いたように感じられました。




