夢か現か
——君はこれから魔法使い見習い兼この店のアルバイトということになる。
物置部屋の扉の向こう側。そこで花屋を営んでいる花の魔女ロージーはそう言って、ケイがまだ手を付けていなかったショートブレッドを奪い取った。それをポリポリと栗鼠のように齧るものだから、食べこぼしが服にポロポロと落ちていたけれど、そんなことは気にせず、彼女は話を続けていく。
——弟子を取るつもりはさらさらないけど、ぼくたちの世界にも世間体というものがあるからね。ひとまず花の魔女の弟子を名乗るといい。ぼくとしては本当に不本意だけどね。
またしても捻くれたことを宣ってくるものの、服にこぼしたショートブレッドの欠片をせっせとラナに取り除いてもらっている姿には威厳というものは感じられない。ハンギングチェアに揺られ、ラナの世話を受けながらあっという間にショートブレッドを食べきったロージーは満足げに紅茶を飲んだところで、ふと何かを思い出したようにさらに言葉を添えた。
——それから、見習いとは言え、君の世界ではくれぐれも自分が魔法使いだということは内密に。誰にも話しちゃいけないよ。いいね?
念を押すようにそう言われ、頷いたのが、昨日の出来事だった。あれからふたたび物置部屋の扉を潜り——繋がっていたのは花屋兼自宅の玄関だった——グランマの家へ戻ったのだが、こちら側ではあの色濃いファンタジーが嘘のように何の変哲もない日常が続いている。今日も学校が終わり次第、家へ帰って花屋へ赴く約束を交わしているけれど、どうにも夢を見ていたかのような感覚から抜けきれない。
もしかしたら昨日の出来事はすべて夢で、あの扉を開いたらただの物置へ繋がるのではないか。そんな考えが頭の中を漂うが、紅茶の香りとショートブレッドの味わいはたしかに記憶に残っている。一度、眠りにつき、今朝がた目覚めてからというもの、ケイはずっと夢見ているような現実味のなさと夢とは思えぬリアルな記憶の狭間をふわふわと揺蕩い続けていた。
「————雨森くん?」
不意に、誰かが声をかけてきた。頭の中をただ漂うばかりだった意識が急速に現実へ引き戻される。机に頬杖をついたまま、しばらく窓の外に向けていた視線を移すと、隣りの席の女子生徒が遠慮がちにこちらの様子を窺っているのが目に入った。
そうだ、ここは学校だった。当たり前の事実を思い出し、自分が如何にうわの空であったかを自覚する。目の前に立つ彼女もそんなケイの状態が気になったようで、それをやんわりと指摘してきた。
「ボーッとしてたけど大丈夫? 次、移動教室だよ。場所わかる?」
「ああ、次は情報だっけ。ええと……」
学校生活が始まって早一週間。進級に合わせて転校してきたものの、まったく異なる地で中学時代を過ごしたケイにとってここは新天地だ。小学生時代の友人はこの五年間ですっかり疎遠になっていた上に、生活圏から少し外れたこの高校には知り合いが誰ひとりとしていない。もとより人見知り気味で、ひとりでいることにそこまで苦を感じないたちのケイは積極的に新たな関係を構築しようとはしてこなかった。さらにグランマが亡くなってからというもの、イヤホンで耳を塞ぎ、特にこだわりもなく音楽を垂れ流すことが多くなったせいもあって、周囲への注意も疎かにしている自覚もある。つまるところ、クラスメイトと言えど、いまだに顔と名前が一致していないのだ。
俄かに口ごもると、親切な女子生徒はケイの困りごとをすぐに察してくれたらしい。彼女は嫌な顔ひとつせずに自身の名を告げた。
「私は岡崎すみれ。パソコン室はちょっとわかりにくい場所にあるし、案内がてら一緒に行こうか?」
「……ありがとう、岡崎さん」
さすがに申し訳なく思いながら感謝を伝えれば、岡崎さんはニコリと愛想よく笑った。席を立ち、自分よりも背の低いクラスメイトの歩幅に合わせて歩き始める。先導を買って出てくれた岡崎さんはケイの半歩先を歩きながら、またもやありがたいことに当たり障りのない話を振ってくれる。
「転校って大変そうだよね。まだ慣れない?」
「うーん……そう、だね。こっちには十二歳まで住んでたんだけど、その頃の友だちはみんな違う学校だから、ちょっと勝手がわからないというか」
「そっか。じゃあ、何かわからないことがあったら私に訊いていいよ。隣りの席のよしみってことで」
「ありがとう」
けして押しつけがましくない申し出は素直にありがたい。グランマが亡くなって以来、己の内側へ閉じこもりがちのケイであったが、今後の学校生活を考えれば知り合いと呼べる関係程度は築いておいたほうがいい。そんなことは端からわかっていたが、つい後回しにし続けてきていた。でも、そんな態度では自分だけでなく周囲もいずれ困ることになるだろう。今こうしてわざわざ声掛けしてくれたクラスメイトの親切心を受け、自身の怠慢を少しばかり反省する。
そんなケイの横で控えめに笑んでいる岡崎さんがふと「ああ、そういえば」と呟いた。
「今日の放課後、クラスの人たちが駅前のカラオケに行くみたいなの。私は用事があって行けないけど、クラス内なら誰でも参加自由らしいよ。みんな、雨森くんに声をかけたがっていたから、もし時間があったら行ってみたらどうかな?」
それはやはりなんともありがたい話だった。こんな誰にも関わらずにいる根暗な新参者を相手にみんなが気にかけてくれている。ケイがやんわりと言外に拒絶していただけで、クラスメイトはきっといい人たちなのだろう。
しかし、今回は少々タイミングが悪い。ちょっぴり罪悪感を覚えつつ、ケイは眉を下げた。
「ありがたいけど、今日からアルバイトが始まるから今回は行けないな……。また機会があったら参加させてもらいたいけど、大丈夫かな」
「全然大丈夫だと思う。みんな雨森くんに興味あるみたいだし、喜ぶと思うよ」
岡崎さんの返答にホッと胸を撫で下ろす。最初から関わらないようにするならまだしも、人の厚意を無下にしたいわけじゃない。周囲の優しさに気付かされた今、それを強く拒絶する理由はケイにはなかった。
最近は気分が落ち込む、まではいかなくとも気分が乗らないことは多いけれど、自身の都合ばかりを優先するほどもう子どもではない。人付き合いの重要性は理解しているつもりだし、そろそろ適度に関係作りというものを始めるべき頃合いなのかもしれない。周囲へ感謝しながらも半ば義務感から自らのスタンスを見直す様は我ながらなんとも受動的だけれど、今はこれが精いっぱいというやつだった。
近いうちに機会があったらその時はちゃんとクラスの輪に入ってみよう。そんな小さな決意を抱いたケイへ、この学校で一番初めに優しさを持ち寄ってくれた親切な隣人はふたたび——少なくとも彼女にとっては——他愛のない話題を提供してくれる。
「初めてのアルバイトって緊張するよね。何屋さんで働くの?」
なんてことないはずの質問に、一瞬、答えに迷う。脳内で花の魔女から言い含められた約束事が回生された。大丈夫。自分は約束を守れる。小さく息を吸い、違和感を持たれない程度の間を置いて、それから嘘にはならない真実を口にする。
「——お花屋さん、かな」
魔女の、という単語だけを飲み込み、ケイは曖昧に微笑んだ。半端な、けれど確かな事実を言葉にしたことで現実が幾分か鮮明さを取り戻す。
花の魔女ロージーが営む花屋、小さな庭。牛と羊の従業員が切り盛りするあの店へ、自分はまた物置部屋の扉を通じて赴くのだ。
けして夢ではない現実を確かめ、ひとまず失くさないように家の鍵とまとめてシンプルなキーリングに繋いでポケットにしまいこんだ物置の鍵を制服越しに探り、触れる。不思議な力を持つその小さな鍵は人目につかないその場所、ケイのすぐそばで、ひっそりと自らの出番を待ち続けていた。




