出張花屋Ⅴ
手描きの地図に従い、東の地区に出店した花屋からさらに東へ向けて道なりに進み、店もまばらになる蚤の市の端から広場を抜ける。ラナが雨宿りしているという書店へ行くには少し遠回りになるようだが、雨が降る中、数多くの出店の合間を潜り抜けていくよりも道がわかりやすい。地図を描いてくれたトーラスもそれを見越して道筋を考えてくれたに違いなかった。
そうして特に迷うこともなく街外れに出ると、先ほどトーラスから聞かされた手入れされていない荒地とやらが目に入る。木製の柵で囲まれたそこは街の外まで続く林のようだ。居住区に近い手前こそ藪が生い茂り、いくつかの切り株が放置されている程度だが、奥へ視線を向ければ巨大な樹木が連なっている。公園の緑や花屋の庭とはまた異なる野性味溢れた自然がそこには残されていた。
トーラスは立ち入るなとケイに言い含めていたが、わざわざ柵を越えなければ侵入することはできない。故にわざわざ避ける必要も感じず、その前を通る。すると濃い緑の匂いが鼻を突き、微かに虫の羽音も聞こえた。雨が降っているのに虫が飛んでいる。そんなちょっとした不可思議に気付き、何となしに林のほうへ視線を向けた。
「あれ……?」
刹那、見た景色に違和感を覚え、立ち止まる。気のせいか。そう思ってよく目を凝らす。すると、その違和感が気のせいではないことがすぐにわかった。
鬱蒼とした木々の隙間。生い茂った葉のせいで太陽の光も届かぬ薄暗いそこ。道なんてあるわけもないその場所に、誰かが立っていた。
それは、老女だった。
そう認識するまでに、ほんの少し時間がかかった。木々の影へ紛れるようにして、ひどく背を曲げた人影が立っている。長い髪が顔を覆い、表情は見えない。
どうして、あんなところに?
ケイは息を止めた。逃げたい。今すぐ、この場から離れたい。そんな思考が脳裏を駆け抜けていく。それでもケイは動かなかった。あそこは立ち入ってはいけない場所だ。だからこそ、もしあの人が幽霊ではなく、本当にただのおばあさんだったとしたら。こんなところに一人でいる老人を、見なかったことにはできない。そう考え、勇気を振り絞って林の奥へ声をかける。
「すみません」
どうにか口にした呼び声は情けなく掠れ、風に攫われた。きっとこんな声量ではあの老婆には届かない。もう一度、なけなしの勇気を振り絞る。
「あの、そこ、危ないですよ」
中途半端で拙い正義感からさらに話しかけてみたはいいものの、へっぴり腰であることは否めない。絞り出した声は相変わらず小さく、そのせいかおばあさんはピクリとも反応しない。きっと声が届かなかったんだ。そう思った。そう思うことにした。故にケイはさらに少し声を張り、引き続きおばあさんへ話しかける。
「雨が降ってますし、こっちに来ませんか」
しかし、おばあさんはやはり動かない。ジッと地面を見つめ、顔を上げようともしない。よく見れば身に纏っている衣服は襤褸であるし、長い髪もひどく縺れているようだ。もしかしたら浮浪者か、それに近い状態なのかもしれない。歳も召していることからボケている可能性だってある。まだ恐ろしく思う気持ちはあるものの、そう考えるとなおさら放っておけない気になってしまう。
とは言え、今のケイにできることは少ない。今はラナを迎えに行く道中であるし、雨のせいかはたまた街外れであるせいか、周囲に人はおらず、誰かを呼ぶことは難しそうだ。そもそもおばあさんから助けを求められたわけでもないのに、こうして勝手に心配していること自体が余計なお世話というものかもしれない。
様々な要因によりしばし考え込んだケイはひとつだけ今の自分にできることを思いついた。今、自分が使用している雨蕗を柵の上から藪の上へ放り込み、ふたたびおばあさんへ声をかける。
「じゃあ、この雨蕗を置いていくので、よかったら使ってください。あんまり濡れると風邪を引いちゃいますよ」
できるだけ愛想よく語り掛けるが、やはり反応は返ってこなかった。やっぱり自己満足でしかないのかもしれないけれど、必要ないのなら帰り道で回収すればいい。その時にはラナも一緒にいるのだから、おばあさんがまだそこにいた場合は彼女に相談すれば何かしらの対処ができるはずだ。
諸々の状況を考えても、今はとにかくラナを迎えに行くべきだろう。そう結論付け、腕に抱えていたもう一本の雨蕗に雨水を含ませて傘として使えるようにする。それをふたたび頭上に差し、最後にペコリとおばあさんへ会釈してふたたび歩き出す。その背後ではゆっくりと老婆が動き出していたが、気持ちが急いていたケイは振り返ることなく真っ直ぐに道を進んでいったため、その様子を目にすることは終ぞなかった。だから、木々の合間に立っていると思われたおばあさんが実は座っていたことにも、そして立ち上がった時の異様なほどの背丈や彼女の周囲に纏わりつくように潜んでいた異常な数の虫にも気付きはしなかった。
それはともかく、そのまま地図を確かめながら歩んでいくと、やっと見覚えのある景色が続く道に出る。あとは己の記憶を照らし合わせればあの書店へ行き着くはずだ。
その考えと記憶は正しく、やはり見覚えのある曲がり角を曲がれば、小さな書店の軒下に立つラナの姿が現れた。人通りもまばらな街中でポツンとひとりで雨宿りしている彼女のもとへ急ぎ駆け寄る。
「ラナさん」
「ケイさん。わざわざごめんなさい。道に迷いませんでしたか?」
きっとトーラスから事前にケイが迎えに来ることを知らされていたのだろう。ケイの姿を見つけたラナはパッと花咲くような笑顔を見せたものの、すぐに眉尻を落とし、申し訳なさげな顔をした。そんな彼女へ気にすることはないのだと伝えるようにケイは努めて朗らかに——と言っても先輩兄妹のようにはいかないが——答えた。
「はい、この辺りは一度来たことがあるので。ラナさんは濡れませんでしたか?」
「ええ。降り始めに雨宿りさせていただけましたから。でも、ケイさんは少し濡れていらっしゃいますね?」
指摘され、先ほど老婆へ雨蕗を譲った際に束の間とはいえ雨ざらしになったことを思い出す。大雨というわけでもないが、新しい雨蕗に水を含ませる間に、髪や服はそれなりにしっとりと濡れていた。あのおばあさんが雨蕗を使うかもわからないというのに、咄嗟に既に使いこなされたほうを渡したことが原因だったが、それはいいとして。それよりもラナを迎えに来ておきながら、謝らねばならないことがあった。
「すみません……途中で傘のないおばあさんに自分の分の雨蕗を渡したから、これ一本しかなくなっちゃって……」
「まあ」
おばあさんに自身の分の雨蕗を譲ってしまったために今のケイは一本の雨蕗しか持っていない。雨蕗の葉は傘として使えるほどには大きいけれど、ふたりで並んで入るには少し小さいのだ。今さらそんなことに気付いて自分の愚かしさにしょぼくれるが、ラナはいつものように柔く笑み、するりとケイの隣りへ滑り込んでくる。
「こうすれば一本でも大丈夫ですよ。ね?」
「でも、肩が濡れちゃいますよね……」
腕が触れ合うほど縮まった距離にドギマギしながら、雨蕗の外側に少しはみ出た彼女の肩が早くも濡れつつあることを指摘する。自分は既に濡れているからいいけれど、せっかく濡れずに雨宿りできていたラナを濡らしてしまうのは忍びない。だが、彼女は緩やかに首を横に振って、穏やかにケイの心配を押し留めた。
「それくらい何てことはありません。この雨ですからそのご婦人もきっとお喜びになられたことでしょう。私も、ケイさんが来てくださって本当に助かりました」
そう言って微笑むラナの眼差しには労いと感謝の色が宿っている。だから、ケイもそれ以上は何も言わず、コクリと小さく頷く。それでこの話は終いとなった。
雨空の下、雨蕗の内側にラナの朗らかな声が響く。
「さあ、お店へ帰りましょう。営業自体に問題はないでしょうが、兄さんひとりきりじゃ可哀想ですから」
湿気のせいか、いつもよりもボリュームの増した癖毛をまとめて肩へ流したラナに促され、ふたりは揃って歩き出した。雨蕗の外側にそれぞれ少しずつはみ出した肩が濡れ、少し冷たい。けれど、その反対側、寄せ合った肩はほんのりとした体温を互いに分け合い、ちょっぴり温かかった。




