出張花屋Ⅵ
結局、雨蕗を譲ったおばあさんはあの場からいなくなっていた。帰り道の途中、ラナにお願いしてあの老婆の様子を窺いに戻ったのだが、林には既に誰もおらず、柵の向こうへ落とした雨蕗もきれいさっぱりなくなっていたのだ。きっと雨蕗を使って何処かへ行ったのだろう。ケイの胸元あたりまである柵を年老いた女性がどうやって乗り越えたのか不思議ではあるが、ひとまず安心してもよさそうだった。
そんな寄り道をしつつ、今度こそ真っ直ぐに自分たちの出店へ帰る。すると、トーラスがひとりで雨蕗目当てに駆け込んできた客たちを捌いている最中だった。そこでふたりは彼を助けるべく、すぐに仕事へ戻った。もはや慣れつつある接客に今さら臆することはない。しばらく愛想よく働き続け、最後の客を送り出した後、ケイを送り出してからずっと休みなく働き続けていたらしいトーラスがようやく息を吐き、雑談めいたことを口にした。
「雨蕗を持ってきて正解だったな」
「そうね。雨蕗のついでに他の商品を買っていってくださる方も結構いらっしゃったもの」
湿気対策に髪を緩やかに編んだラナが頷き、随分と隙間の空いた陳列棚を見渡す。鉢植えは既に残り少なく、花束やリースもほとんどがお客さんの手に渡っていった。利益計算など詳しいことはケイにはわからないが、今回の蚤の市への参加は概ね成功と言えるのではなかろうか。少々寂しくなった店内と周囲の他店の様子を見たトーラスが言葉を続けた。
「おかげさまで商品も残り少ないし、そろそろ潮時だな。他の店もだんだん撤収していってる」
「この雨足だもの。仕方ないわ。私たちも撤収作業に入りましょうか」
「そうだな。ちょうど客足も途絶えたことだし、初夏とは言え、お前たちもそんなに肩を濡らしていたら寒いだろう。風邪を引く前に帰ったほうがいい」
「すみません……」
こちらを気遣う言葉に思わず縮こまり、ケイは謝罪を口にした。帰り道の途中でおばあさんの様子を見に行ったこともあり、ケイとラナは短くない時間を雨に晒されてしまっていた。ふたりで使っていた一本の雨蕗からはみ出ていた肩は、タオルで拭いた今もなお濡れたままだ。トーラスの言うように濡れた肩を起点にうっすらと寒気を感じるが、それはラナも同じことだろう。
自身が招いた事態に申し訳なさを覚え、肩を落とす。すると、既に自身の妹から事の顛末を聞かされているトーラスは穏やかに微笑んだ。
「謝ることじゃないさ。俺も、ラナも、例のご婦人も、ケイのおかげで助かっただろ。早く帰って熱い紅茶でも飲もうぜ」
「昨日のうちにチーズケーキを焼いて冷やしてあるので、ブルーベリーのジャムを添えて食べましょうね」
兄の言葉を追うようにラナが魅力的な情報を付け加えたことで、帰宅後のご褒美が三人の共通する目標となる。そうと決まれば、その目標に向けて目先の撤収作業に尽力するのみだ。
そんなわけで、まだ蚤の市の終了時刻まで時間はあるものの、出張花屋リトル・ガーデンはここで営業終了となった。
ケイとラナは主に残った商品を箱詰めし、その間にトーラスが陳列棚などの備品を荷車へ積んでいく。開店準備の時に比べ、閉店作業は速やかに執りおこなわれた。あっという間に荷物が撤収され、残るは雨水滴るテントの解体のみとなった頃。ケイがさらにずぶ濡れになる覚悟を決めていた傍らで、空を見上げたトーラスが笑みを漏らすように独り言ちた。
「なんだ、片付け終わるって時になって晴れるのか」
彼に倣い、視線を上げてみれば、いつの間にか雨は止んでいた。薄暗かった空には風が吹き、残された厚い雲を南へ運びゆく。長居せずに去っていった雨雲を見て、ラナもクスクスと笑んだ。
「ふふふ。タイミングが悪いわね。でも、帰りは濡れなくて済みそう」
「たしかにな」
妹の言葉にトーラスが頷く。その意見にはケイも完全に同意だった。既に濡れそぼつテントを片すために多少は濡れるかもしれないけれど、雨天の下で作業に比べれば屁でもない。
覚悟していたとは言え、僅かに軽くなる心に釣られるようにまた一度、徐々に晴れつつある空を見上げる。すると、ケイの眼があるものを見つけ出した。
「あ、虹……」
風に煽られて散り散りになっていく雲の隙間。泣き止んだ空で七色のアーチが輝いていた。その鮮烈な光と雨粒による賜物を目にして我知らず呟けば、先輩兄妹もふたたび揃ってそれを見上げる。
「まあ、本当。くっきりときれいに空へ架かっていて、気分が明るくなりますね」
「こういう景色を見ると夏がきたって気がするな」
各々にゆったりとした調子で虹について言及し合う兄妹の言葉に頷き、ケイは眩げに眼を細めた。
もうすぐ、夏が来る。
去年までは何とも思わなかった季節の到来が、何故だか妙に待ち遠しく感じる自分がいた。この花屋で、自分はどんな夏を過ごすのだろう。近い未来を思い、エプロン越しに腰へ手を当てる。店員で揃いのカーキ色のエプロンは今やすっかり手馴染み、俄かに弾み出したケイの心をそっと受け止めてくれているような気がした。
けれど、今はとにかく後片付けだ。雨に濡れて冷えた体に、やっと顔を覗かせた太陽の光を浴びつつ、そばに残っていた木箱を抱え上げる。あともうひと頑張り。そう自分を鼓舞し、今日のおやつのためにケイはふたたび働き出したのだった。
第二章「初夏」完。
次章は年内には開始する予定です。




