出張花屋Ⅲ
昼を報せる鐘が鳴る頃。ようやく花屋の客足も落ち着いてきた。今頃、食べ物の出店は混雑していることだろう。それを見越して少し前にラナが店を抜けて買ってきたサンドイッチが今日の昼食となった。
仕事に余裕が出てきたとは言え、まだお客さんはぽつぽつとやってきてくれている。故に、ひとりずつ順番に休憩を取り、店の裏で交代するように食事を済ませることになった。最初にケイが食事を摂り、続いてラナ、そして今はトーラスが食事中である。
つまり今はふたりで店番をしているわけだが、先ほどカンパニュラの鉢植えを買っていったお客さんを最後に、今日初めて客足が完全に途絶えていた。それでも働き者のラナは商品が売れた分、穴の空いた陳列を詰め、見栄えを整えながらケイを気遣うことも忘れない。
「客足が落ち着きましたね。ケイさんはお疲れではありませんか?」
「大丈夫です。さっき休憩をもらってご飯も食べましたし、まだまだ元気です」
「うふふ。では、午後も頼りにさせていただきますね。お昼時を過ぎたらまたお客様も戻ってこられるでしょうから」
そんな会話を交えながら、束の間のんびりとした時間に身を委ねる。しかし、その一時の平穏はすぐに破られることとなった。
「魔法生物店からキマイラが逃げたぞーッ!!」
突如、辺りに怒号が響き渡った。何が起こったのか理解が追いつかず、一瞬の静寂。だが続いて聞こえてきた悲鳴に周囲はたちまち騒然となる。
けれど、キマイラが何なのか知らないケイはそれがどういった事態なのかまったくわからない。それでも目につく人々の様子から只事でない様子が伝わり、急速に不安が膨らみ上がる。かろうじて先輩に指示を仰ごうという考えが思い浮かび、視線をラナへ向ける。
周囲がざわめく中、彼女は至って落ち着いているように見えた。だが、その口から出てきた言葉は思いもよらないものだった。
「ケイさんはお店に残っていてください。私、ちょっと行ってきます」
「えッ……ラナさん!?」
驚き、彼女の名を口走るが、先輩は振り向くことなく店の外へ飛び出していく。その迷いのない後ろ姿につられ、ケイも思わず言いつけを破り、後を追って店を出た。
意外と足の速いラナはケイを置き去りにして駆け、やがて少し先、やや拓けた歩道で立ち止まった。悠然と佇む彼女が見据える道の向こうから四つ足の獣が駆けてくる。
それは今まで見たこともない生物だった。大きな獅子の頭だけを見ればアスランを思い出したかもしれない。しかし、獅子だと断定するにはその姿はあまりにも異様であった。正面を向く獅子の頭の横、右の肩口から生えた山羊の頭が大きく嘶いた。それに呼応するように蛇の頭を持つ尾が天を衝く。ひとつの肉体に数多の生物の特徴を宿した双頭——否、三つ首の猛獣は興奮しきった様子で真っ直ぐにこちらへ向かってきていた。
道行く人々は短い悲鳴を上げながら手近な店へ逃げ込んでいく。だが、ラナは動かない。真っ向からキマイラなる獣の行く先に待ち構えている。
「ラナさん……ッ!」
悲鳴と共に名を叫ぶ。けれど、もう間に合わない。最悪の事態が脳裏を過ぎった。心臓がうるさく脈打ち、息が浅くなる。走り慣れていない脚が縺れ、ケイは躓いた。それでも視線は逸らすことなくラナを捉える。彼女の向こうで獅子の頭が牙を剥いた。噛まれる。最悪の事態へ続く第一歩がすぐそこまで迫っていた。
しかし、ラナはやはり逃げなかった。それどころか一歩前へ出て背筋を伸ばし、胸に手を当て、体から力を抜く。その次の瞬間。
「————」
刹那、透き通るような声が鼓膜をすり抜けた。言葉という形を持たぬそれが歌であるということに数拍遅れて気付く。耳孔から滑るように流れ込み、頭の中に染み渡っていくような歌声は場違いなまでに穏やかで澄み渡っている。歌詞もなく抑揚だけで織りなされる即興曲。神経を慰撫するような低い声色で紡がれるそれが原始の——母が子に授ける子守唄であるとケイは直感的に覚った。
その直感は正しく、それまで猛然と駆けていたはずのキマイラがガクンと速度を落とす。一歩、二歩と進むたびに勢いを削ぎ、ラナのもとへ辿りつく頃にはその巨体をほとんど地面へ臥せる形となった獣は重たげな瞼をゆっくりと瞬かせた。山羊の頭は既に完全に眼を閉じ、瞼のない蛇の尾もだらりと地面に垂れ下がって沈黙する。最後に獅子の頭が往生際悪く頭上のラナの顔を仰いだ。その面差しは巨躯の獣ながら何処か幼気に見える。歌声を宙へ融かすようにして歌い終えたラナはそんなキマイラへそっと手を伸ばした。そして獅子の鬣を優しく指で梳くように撫で、囁く。
「いい子ね。おやすみなさい」
慈愛の滲む声色に促され、獅子の頭も完全に地へ伏した。一瞬、辺りを静寂が包む。だが、すぐに誰かが遠慮がちに手を叩き始めた。それを皮切りにして徐々に拍手の音は数を増やし、まばらだった称讃の表明はやがて大喝采となる。
自然と湧き上がった歓呼の中心でラナは少し戸惑った後にきれいな一礼を披露した。そうすると、そこは露店に囲まれたただの道端であるはずなのに、まるで劇場の舞台のように見えた。拍手はさらに熱を帯び、何処からか口笛まで届く。エプロン姿の英雄を皆が讃えていた。
その様子を何処か夢うつつな状態で眺めていると、キマイラが駆けてきた道の向こうからひとりの男が走ってきた。腰に丸めた鞭を携えたその男はそのままラナのもとへ駆け寄り、勢いよく頭を下げた。
「す、すみません……! こいつ、うちの看板キマイラなんです。本当に気の好いやつで人を襲うようなことはないんですけど、客の悪戯で縄を外されて、すっかりはしゃいじまったみたいで……」
「こちらこそ、問答無用で寝かしつけてしまって申し訳ありません。この子はまだ子どものようですけれど、運ぶには少し大変なサイズでしょう?」
「いえいえ! 捕まえていただいて本当に助かりました! おかげさまで怪我人も出ませんでしたから!」
「ですが、このままというわけにもいきませんし……」
平身低頭するキマイラの飼い主を相手にラナが困った顔をする。すると、ケイの背後からゆっくりと歩んできた誰かが立ち尽くすケイを追い抜き、ラナのもとへ近づいていった。
「ラナ、俺が運んでくるよ」
「兄さん。もう食事は済んだの?」
店の裏で昼食を摂っていたはずのトーラスの登場にラナがホッとしたような顔を見せる。キマイラの飼い主がやってきたあたりで拍手は徐々に鳴り止んでいたが、それを機に辺りの雰囲気は完全に日常の範疇へ戻っていく。いつから見ていたのか、妹の活躍を把握しているトーラスは労うように彼女の肩を軽く叩き、キマイラのそばに屈み込んだ。
「ああ。幼体程度なら運べば腹ごなしにちょうどいいし、ないとは思うが万が一途中で起きても俺なら対処できるから、こっちは任せておけよ。だから、お前はケイと店番を頼む。ほら、そこで心配してるから、早く安心させてやりな」
「まあ」
兄に指差され、ラナがこちらを向く。事後処理を兄に任せた彼女は急ぎ足でケイのもとへ駆け寄ると、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい、ケイさん。何も説明せずに飛び出したものだから驚かれたでしょう」
「あ、いえ……はい……少しだけ……」
否定しきれず遠慮がちに頷けば、ラナも一緒に苦笑する。巨体であるキマイラを悠々と肩に担ぎ運んでいくトーラスを見送りつつ、今はもぬけの殻になっている店へ戻りがてら彼女は自身について簡単な説明を添えた。
「私は魔女としては一応治療師に区分されるのですけれど、実は治癒魔法よりも睡眠魔法のほうが得意なんです」
「睡眠魔法……」
ポツリと復唱するケイの頭に働き始めたばかりの頃の記憶が蘇る。いつの日か交わした会話を辿り、それを直接本人へ訊ねる。
「じゃあ、前に言っていたマンドラゴラの収穫に役立つ特技って……」
「ええ。睡眠魔法で眠らせてから収穫すれば、死の叫びを聞かずに済むでしょう? 私は魂あるものならば大概は寝かしつけられますので」
「頼もしい……」
言葉に滲む自らの魔法に対する自信を感じ取り、感嘆する。その威力は今しがたこの目で確かめたばかりだ。大型犬よりもひとまわりは大きいキマイラを——それでも幼体であるようだが——あっけなく鎮静化したラナの手腕はその自信に相応しいものだろう。
しかし、此度の一件については何か思うところがあるようで、彼女は先ほどケイのもとへ駆け寄ってきた時と同じ顔をした。
「けれど、この辺りのお店の方々は、午後はちょっぴりおねむかもしれませんね。睡眠効果そのものはキマイラへ集中させていたとは言え、魔法を乗せた子守唄を垂れ流してしまったわけですし……せめて杖があればもっと効率的に眠らせられたのですけれど……」
言われてみれば、たしかにラナの歌を聞いてからというもの、妙に意識がふわふわと揺蕩っている気がしていた。周囲の様子も昼前の活気ある雰囲気からは幾分か落ち着き、何処かのんびりとした空気が漂っている。これが睡眠魔法の余波だとしたら彼女の心配も的外れというわけではないだろう。
だが、それでも露店で働く人々に困った様子はない。何よりもラナが魔法を行使したことによってなし得た絶対的な事実がひとつある。故に、ケイはそれを、自身の至らなさを気にするラナへ提示する。
「でも、ラナさんの魔法のおかげで、キマイラも含めて誰も怪我しなくてよかったです」
「……そうですね。皆さんには少し申し訳ないですけれど……今回はそういうことにしておきましょうか」
ケイの言葉に多少納得したらしいラナはそう言ってやっと頬を緩ませた。せっかくあわや一大事という場面を丸く収めたのだから、彼女にはその成果を堂々と誇っていてほしい。そんなことを思ったケイは彼女が笑ってくれたことにホッと胸を撫で下ろした。
そうやって話をまとめつつ店へ戻れば、テントに支柱へ何やら札が下げられている。店を空ける前にトーラスが取り付けておいてくれたに違いなかった。おそらくは〝close〟といったような意味の言葉が書かれているそれを取り下げ、ラナが咳払いを以て改まる。
「では、午後もつつがなくまいりましょう」
「はい。よろしくお願いします」
こうして、ひとまずふたり体制にて花屋リトル・ガーデンの午後営業が始まった。そろそろ昼時は過ぎようとしている。直に客足も戻ってくることだろう。今一度、気を引き締め、ケイは手始めに鉢植えコーナーの陳列を整えることにした。




