小さな魔女
グランマの部屋で見つけた鍵を握り締め、ケイは物置部屋の前へ戻ってきた。一緒に二通の手紙も持ってきたが、その内容は——もちろん気になるものの——今は後回しだ。そもそも片方は別の人に宛てたものであるようだし、何よりこの鍵の正体を早く確かめたかった。
珍しく逸る心に従い、掌のぬくもりが移った鍵を扉の鍵穴へ差し込む。すると、鍵は抵抗もなく穴へ吸い込まれていき、ピタリとはまり込んだ。そのまま鍵を捻れば、カチャリとたしかに錠の開いた感触が伝わる。
「やっぱり、ここの鍵だったんだ……」
心臓がドキドキと脈打っている。こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。扉を開けば見慣れた光景がそこにあるだけだとわかっているのに、何故だか新しい世界を前にしたような感覚があった。
勝手知ったる秘密基地とは言え、五年ぶりの来訪だ。中には何か幼い頃の思い出の品でも残っているかもしれない。そんなことを考えながら、ゆっくりと扉を開いた。その瞬間、チリンと鐘の鳴るような音が耳へ届く。
「…………え?」
心当たりのない音を聞きながら扉の向こうの景色を目にして、ケイは間抜けな声を漏らした。思考はフリーズし、目の前の光景を眺め、しかしそれを現実として認識することができずに硬直する。
頭の中に描いていた、整理されながらも物に溢れていた部屋はそこになかった。積み重ねられていた荷物がない。それだけなら自分たちが家を出た後にグランマが処分したのだと納得できた。だが、これはそんなレベルの話じゃない。
ケイの目の前には、フローリングの道が続いていた。そこまで距離のない廊下だ。突き当たりまで視線を走らせれば、前方と左方、二方向の壁にそれぞれ入り口がひとつずつ拵えてあり、どちらも扉が閉ざされている様子が目に入る。信じられないような想いで、それよりも幾分か手前へ視線を戻し、何となしに右を見る。すると、ケイの立つ物置の扉からすぐ右手にも入り口があることに気が付いた。そこは扉もなく、壁をくり抜くような形で、ただ開かれている。そこを覗き込む勇気がなくて、今度はその反対側、つまるところ左側の閉ざされた扉の手前へ目をやれば、決定的な異常が視界に映り込む。それは、ここ——本来は階段下に作られた物置部屋であるはずの場所にはあり得ない、二階へと続く階段であった。
階段の下から階段が生えている。増築した、なんて考えすら浮かばない。その程度の推測では説明がつかない。扉の向こうが物置であったという記憶が過ちであるかのように、ちょうど誰かの家へ玄関からお邪魔したかのような景色がケイの目の前に広がっていた。
呆然としたまま、ケイはパチリとひとつ眼を瞬いた。カメラのシャッターを下ろすように、一度、瞼で世界を隠してみるものの、眼前の光景は変わらない。無意識にふらふらと扉を潜り抜け、玄関土間へあがり込む。そうしてしばし辺りの様子を見渡して、ようやく意識が現実へ追いついてくる。
「え、何……ここ、何処……?」
困惑しながらも脚はそろりそろりと少しずつ動き続ける。本来ならば見知らぬ家屋の中を勝手に歩くことなんてするわけもないけれど、ひどく混乱していた上に、この廊下が物置の扉から地続きにあったせいで、ここがグランマの家の延長線上にあるような感覚が心の何処かに残っていた。それに、好奇心とはまた異なる、謎を明らかにして不安を解消したいという本能に近しい気持ちがケイを後押しし、正常な判断を妨げてもいた。
しかし、さすがに閉ざされた扉を開けたり、廊下に乗り上げる勇気はない。故に、足は自然と玄関としては広めの土間から続く、ただひとつ開かれているアーチ状にくり抜かれた開口部へと向かう。
いわゆるアーチ壁と呼ばれるその入り口から、恐る恐る中の様子を窺う。僅かな自然光だけを頼りに薄暗い室内を見渡してみると、たくさんの荷が整然と並んでいるのがわかった。数々の木箱に樽ようなもの、壁に吊り下げられた植物や、水を張ったバケツに差された花、棚に並べられているのは花瓶だろうか。大きな流し台まで備え付けられているそこに、僅かに興味を刺激され、もっと近くに寄ってみようとケイはほんの少しばかり身を乗り出した。その次の瞬間。
「兄さん? もう帰ってきたの?」
「ッ……!?」
不意に、何処からともなく女性の声が投げかけられた。
突然のことにひどく驚いたケイはビクリと大きく肩を跳ねさせた。意図せず跳ねた肩が棚へぶつかり、そこに並べてあった花瓶がいくつか落下する。それらは重力に従って床へ激突し、景気よく大きな音を立てて派手に割れた。
「うわっ……!」
「きゃっ……!」
花瓶が砕けたことにさらに驚いて声を上げれば、先ほどの声の主も小さく悲鳴を上げる。これ以上の被害を出すわけにはいかない。ケイはその場で身を縮こまらせ、木偶の坊のように立ち尽くした。頭の中はすっかりパニックに陥っていたが、体は硬直しきり、全身が強張る。
そうこうしているうちに姿の見えなかった女性が現場へ駆けつけてきたようで、部屋の奥の大きな棚の影から——どうやら隠れていてわからなかったが、その辺りにも別の入り口があったらしい——おずおずと見知らぬ顔が姿を現した。切れ長な双眸がこちらを捉え、困惑の色を宿す。
「あ、あの、どちら様でしょうか……?」
問われるが、ケイは答えられない。故意に質問を無視したわけではない。ただ、今しがた現れた女性の姿に目を奪われ、言葉を失ってしまっていたのだ。
とは言え、その理由は何も彼女が思わず絶句するほどの美女であるからというわけではない。いや、たしかにきれいな〝女性〟ではある。だが、それよりも先に、目につく明らかな特徴が彼女にはあった。
「ああ、花瓶を落とされたのですね。お怪我はありませんか?」
棚の影からこちらの様子を窺っていた彼女は状況を理解したのか、特に警戒することもなく近づいてきて、黙りこくるケイの顔を覗き込んだ。墨のように黒く滑らかな肌からふわりと花のような淡い香りが漂い、鼻腔を擽る。
「お客様……ではなさそうですよね。あの、ここはお店のバックヤードなのですが、どのようなご用件でしょうか?」
何やら穏やかな物腰で優しく問いかけてくれているが、それもやはりケイには届かない。ケイの意識は先ほどからずっと彼女の側頭部へ集中していた。
人間というよりは何か動物を思わせる、垂れさがった大きな両耳。その上に生えた螺旋状の立派なツノ。一瞬、何かの仮装かと考えたが、それにしてはあまりに生々しく、血が通っているように見える。明らかに作り物ではない。でも、だとしたら、彼女は一体、何だというのか。
答えの出ない疑問に頭を埋め尽くされ、放心状態でいると、目の前の女性は困ったように眉を下げた。彼女が身じろぎするたびに長く伸ばされた白い癖毛がふわりと靡く。その様子を見て、彼女は羊によく似ているかもしれないという考えがまるで現実逃避するように脳裏へ過ぎった。
「……あら?」
長引く混乱の中でケイが思考停止に陥っている最中、何も答えない侵入者に困り果てていた女性が何かに気付いた。彼女の視線はケイの手元を映し、そこに握ったまますっかり忘れ去られていたものを見つけ出していた。
「そのお手紙……もしかして店長のお知り合いですか?」
新たに重ねられた問いかけに、ケイはやはり答えられない。そもそも彼女の言う店長とやらに心当たりがない。思考が平常であったならば二通の手紙の片方に刻まれた宛名を思い出していただろうけれど、今はとてもじゃないがそれどころではなかった。オロオロと情けなく視線を泳がせることしかできない。
「……どちらにせよ、一度、相談したほうがいいわよね」
挙動不審に黙するケイをよそに、羊を思わせる女性は何かを決心したようで、自身へ言い聞かせるように何やら小さく呟いた。それから割れた花瓶を避け、先ほどケイが潜り抜けてきたアーチ壁のほうへ向かっていくと、口元に穏やかな弧を描き、安心感を誘うような微笑を湛えてみせた。
「どうぞ、こちらへ。今日はお天気もよくて心地好い陽気ですから、きっと店長の機嫌も悪くないと思われますよ」
手招きされ、ケイは少し躊躇ったものの、最終的には彼女へついていくことを決めた。ケイの思い描く人間の姿から僅かに外れた女性ではあるが、その言動に敵意は感じない。ついていっても悪いことにはならないだろう。多少の冷静さを取り戻した頭の片隅でそう考えて、おずおずと強張った脚を動かす。
そんなケイを安心させるようにまた一度ニコリと笑んだ女性はゆっくりと歩を進め、玄関で靴を脱ぐと、例の廊下へあがり込んだ。そこでようやく自分がスリッパを履いたまま土間を歩いていたことに気が付いたが、時すでに遅し。履き慣れたスリッパを衛生観念の視点から諦め、前を行く彼女と同じように靴下を履いた足で屋内へ踏み入った。
そのまま廊下を進み、数メートル先、例の突き当たりの扉の前で女性が歩みを止める。閉じたドアの向こうからは物音ひとつ聞こえない。しかし、彼女は迷いなくノックして扉越しに誰かへ声をかけた。
「ロージー、起きてる? お客様がいらっしゃったのだけれど」
「………………入って」
たっぷりと間を空けて返ってきた声は明らかに寝起きのものだった。それでも女性が躊躇することはない。遠慮なく、けれど静かに扉が開かれる。その流れで、女性に目礼を以て促され、ケイは及び腰のまま入室した。
通された室内は、先ほどの倉庫のような――羊に似たあの女性はバックヤードと言っていた――場所よりも幾分か乱雑とした雰囲気をしている。開けっ放しの窓から吹き込む風にはためくレースのカーテン。大量のクッションや適当に敷かれたラグ。そして得体のしれない瓶や大量の植物に埋もれた部屋は散らかってはいるものの、住み心地はなかなかよさそうだ。そんな部屋の主は壁のくぼみの中に造りつけられた、いわゆるアルコーブベッドで横になっていたらしく、窓と揃いのレースで隠された寝床から冬眠明けの熊のようにのそのそと這い出てくる。
そうして温かみのある色合いのラグの上へ降り立ったのは、十にも満たないような幼い少女だった。背丈はケイの胸元あたりまで届くかどうかといった程度だろうか。ぶかぶかのロングTシャツに包まれた体は華奢で、抜けるような白い肌と相まって、風が吹けば折れてしまいそうな可憐さを感じさせる。だが、彼女の髪と瞳、その色がケイを驚かせた。
鮮やかな赤毛、そして満開の薔薇を彷彿とさせる深紅の瞳。人体としてはどちらも今まで見たことのない色をしている。けれど、やはり作り物とは思えない。ここまで案内してくれた女性の耳やツノと同じく、それらはケイの常識にはない特徴だった。
とは言え、先ほど覚えた驚愕よりはいくらか衝撃が小さい。どうにか感情が表出するのを抑え込み、少女の反応を待つ。すると、眠たげな眼を手で擦った彼女はジトリとした眼つきでケイを見やり、鼻の上に散らばったそばかすを集合させるように皺を寄せた。
「君、誰? ……待って、その瞳の色は、まさか」
然も不機嫌そうな面差しから一転、ケイの双眸を見て顔色を変えた少女の言葉に、今の自分がカラーコンタクトで金の瞳を隠していないことを思い出す。普段から面倒事を避けるために用いている防具もないまま、見知らぬ者と対峙している事実に新たな動揺が走るが、もう誤魔化すタイミングはない。
互いに狼狽し合ったふたりは言葉を詰まらせ、場は俄かに硬直する。そんな中、扉のそばに控えていた羊のような女性が軽い調子で少女へ声をかけた。
「あら、やっぱりお知り合いだった? あなた宛ての手紙を持っていらっしゃるから、ここへお連れしたのだけれど」
「手紙?」
女性から与えられたキーワードをきっかけにして僅かばかりの平静を取り戻した少女が、ケイの瞳に釘付けとなっていた視線を下げる。そうして、ここへ至るまでケイがずっと握り続けていた封筒のうちの一枚を視認した瞬間、彼女は動いた。
「それ貸して!」
ほとんど叫ぶようにそう言い放ち、猫のような俊敏さでケイの手から手紙をひったくると、少女はラグの上へ座り込み、即座に封筒へ手をかけた。軽く糊付けされているだけのそれは素手でもどうにか開けられる。そうは言っても焦っているのか、少女はビリビリと豪快に封筒のふちを破いていった。
その強張った面差しを見ているうちに、だんだん心許ないような気持ちになって、思わず言い訳じみたことを今更ながら口走る。
「あの、俺、物置の中に入ったはずなのに、どうしてかここに」
「ちょっと黙って」
端的に言葉を遮られ、ケイはすぐに口を噤んだ。ここにきてようやく頭が現実に追いついてきていた。それこそ、今は目の前の少女がグランマからの手紙を読む間、邪魔をしないようにするべきだと判断できる程度には。
故に黙りこくり、棒立ちになって彼女が手紙を読み終わるのを待つ。
真剣な眼差しでグランマが紡いだ文章を端から順繰りに追う少女は自身も声ひとつ上げずに集中している。その様は今にも燃え尽きそうな蝋燭の火のような危うさを感じさせるが、同時にひどく鬼気迫った凄みを全身に纏っているように見えた。時おり呼吸を忘れたように息を詰め、如何にも神経質そうに眉を顰め、悔しそうに唇を噛み、その美しい瞳に複雑な感情を宿しながら彼女は己に遺された手紙を読み進めていく。もしかしたら声を上げて泣いてしまうかもしれない。そう思うほどに彼女の剣幕は静かながらも激しいものだった。
しかし、結局、少女は最後まで涙を見せなかった。手紙の終わりまで駆け抜けた眼差しが僅かに苦悶を滲ませ、白い瞼に覆われる。それからしばし沈黙した後、彼女は目を開き、その幼さには似つかわしくない、感情を抑圧した淡泊な声色で呟くように言った。
「————アイリスは、死んだんだね」
「はい」
「そう……」
問いかけるような、はたまた、ただ念押しするような物言いに小さく頷きを返すと、少女はふたたび手中の手紙へ視線を落とした。つい先ほどまで渦巻いていた激情は消え失せ、深紅の瞳は凪いだ湖畔のように文字の羅列を映している。つまらなそうにツンと尖った小さな唇がふたたび引き結ばれることはなかった。彼女は手紙の表面を指でなぞり、溜息を吐くようにしゃべり出した。
「この手紙に、君のことを任せるって書いてあったよ。まったく、あの子はいつも本当に勝手なんだから」
そんな悪態を口にしながら、その実、仄かな温かさを孕んだ声色が在りし日のグランマへ向けられている。一瞬、垣間見えた少女の機微はケイの気を引いたものの、それはすぐにしまいこまれてしまう。
彼女はラグの上で立ち上がり、ピンと背筋を伸ばした。そして、自分よりもうんと高い位置にあるケイの顔を仰ぐと、やはり面白くも何ともなさそうな面差しで名乗りを上げる。
「小さな庭へようこそ、ケイ。ぼくはロージー。君のおばあさまの古き友人、花の魔女ロージーさ」
眠たげな双眸で真っ直ぐに友人の孫を見上げた少女——花の魔女ロージーは、そう言って皮肉っぽい微笑を唇の端に作り上げた。その本心を覆い隠すような、複雑な表情は、永い時に揉まれ、すっかり擦れてしまったひねくれ者の老女を思わせた。




