グランマのお家Ⅱ
危うく空き家となりかけたグランマの家へ引っ越してきて一週間が経った。新居と言ってもかつて十二年も暮らした家だ。五年の空白期間はあれど大体の勝手はわかる。もとより荷物の少ないケイは早くも片付けを終え——もちろん自室だけでなく共用の生活空間の荷解きも進めつつ——既に淡々とした日常を取り戻しつつあった。
今朝もとっくに型落ちした古いトースターを使って六枚切りの食パンを焼き、子どもの頃に使っていた海外の人気マスコットのイラストがプリントされたマグカップにインスタントコーヒーを溶かし入れ、適当な朝食を済ませたところだ。パンに塗るジャムやバターはなかったけれど、わざわざ買いに行くような気力はない。ひとまず活動できる程度のカロリーさえ摂れたらそれでいい。
今日が土曜日であることもあり、相変わらずやる気のない食欲を傍目に時間をかけて無理やり一枚のトーストをコーヒーで胃へ流し込んだ。それから手についたパン屑を払い、少ない洗い物を片付けたところで、出勤予定の父がまだ部屋から降りてきていないことが気にかかってくる。
ケイは彼の仕事について詳しいことは知らないが、大学の英語講師という職業柄か、彼はやたらと荷物が多い。朝の僅かな時間を荷解きに充てているに違いなかった。
気付いていながらこのまま見過ごすのも忍びない。少し足を伸ばし、台所を出てすぐそこにある階段の下から書斎へこもったきりの父へ声をかける。
「父さん、遅れるよ」
「もうこんな時間か。まずい」
予想通りの展開。扉越しに盛大な物音を立て、すぐにバタバタと階段を駆け下りてくる父は既にスーツ姿であるものの、髪には僅かに寝ぐせが残っている。その慌ただしい様子に彼の荷解きがまだまだ終わりそうにないことを覚り、思わず口を挟む。
「そっちの片付けも少し手伝おうか?」
「大丈夫! 荷解き全体としてはほとんど終わってるんだし、あとは父さんの部屋だけだからそのうち何とかするさ」
リビングの端などにいまだ段ボール箱が詰まれている状態は、果たして片付け終わっていると言えるのだろうか。大雑把な父らしい物言いにそんな疑問が湧き上がるが、口にはしない。忙しい父の代わりに自分が手を動かせばいいだけの話だ。既に転校先の高校にて新たな学校生活が始まっているけれど、部活動やアルバイトがあるわけでもない暇な学生なのだから、時間のある人間が担うべきだろう。
ひとまず嵩張る段ボールをどうにかせねば。この辺りの資源回収の日はいつだったか。意識が目の前の雑事に向かい、玄関でしゃがみ込んで靴を履く父の背中をぼんやりと眺めていると、不意に何かを思い出したらしい父が振り返ってこちらを見た。
「そういえば、階段下の物置の鍵が見当たらないんだけど、昔、お祖母ちゃんから何か聞かなかったか?」
「物置?」
唐突な問いかけに思考を中断し、とりあえず耳に入ってきたキーワードを復唱する。父の言う通り、二階へ上がる階段の下には物置として使っていたスペースがある。だが、心当たりがあるわけでもなく、ケイは首を傾げながら素直な所感を口にした。
「むしろ鍵がかかるなんて初めて知ったけど」
「そうか……まあ、別に開かなくても支障はないから急ぐ必要もないんだけどな」
なんとも大雑把に話をまとめた父であるが、靴紐を結ぶ手が止まっている。そんな呑気な父の尻を叩くべく、改めて今の時刻を指摘してやる。
「父さん、時間」
「ああ、まずい! いってくる! 夕飯は帰りに何か買ってくるから!」
「うん。いってらっしゃい」
ようやく父を送り出し、ケイは肩の荷が下りたような気持ちで、ひとまず自室へ戻ろうと踵を返した。しかし、階段を上る直前、閉じた物置部屋の扉が目に入り、何となしにドアノブへ手を伸ばす。ドアノブを掴んで回せばガチャリと音を立てたが、扉は頑なに閉じたまま動かない。
「鍵、本当にかかるんだ」
よく見ればドアノブのそばに小さな鍵穴が開いている。昔はたしかになかったその穴は、自分たちが家を空けている間にグランマが取り付けたものなのだろうか。今はもう確かめようもない疑問が浮き上がる。そして、それと同時に昔の記憶がふたたび脳裏へ蘇ってもいた。
冬の終わり、まだ冷たい風が悪戯に窓をガタガタと揺らしていた。そんな中、スリッパを履いた足が廊下を滑るように歩く音を耳が拾い上げる。物置部屋には色んな荷物が置いてある。その中のひとつ、夏の水遊び用の道具がしまってある箱の裏に身を潜め、思わず漏れ出てしまいそうな笑い声を押し殺した。
——ケイ。また物置にいるの?
――いないよ!
細く開けておいた扉の隙間から、グランマがこちらを覗き込んだ。密室に閉じこもるのは少し怖いからという理由でわざと扉を開けていたくせに、幼いケイはわかりきった嘘をついてクスクスと笑う。でも、バレてしまったものは仕方がない。あっさりと居留守を中断したケイは扉の向こうのグランマにこっそり秘密を打ち明ける。
——ここはね、ひみつきちなんだよ。
——あら。そうしたらグランマはお邪魔かしら。
——グランマは〝とくべつ〟だから入っていいの。
——じゃあ、お言葉に甘えて、おじゃまします。
改まってお行儀よくいそいそと物置に足を踏み入れたグランマは、足元に転がるクレヨンを見て、すぐにこの部屋の中でケイが何をしていたのかを理解したらしい。彼女はクレヨンと一緒に床へ散らばった画用紙のうちの一枚を手に取ると、眼を細めるようにして微笑んだ。
——お絵描きをしていたの?
——うん。お花とグランマ。こっちはぼくとパパ。
——上手ね。色使いがとっても素敵。お花はビオラとマーガレットかしら。一緒にお庭でお世話したものね。相変わらずよく覚えていますこと。
今思うと、線もぐちゃぐちゃで、クレヨンで塗った色もそれぞれの陣地を飛び出していたような絵だった。それでもグランマが本当に嬉しそうな顔で褒めてくれるものだから、幼い自分はいつもすっかり得意になってしまうのだ。
——その絵、グランマにあげる。
——いいの? 嬉しい。グランマの宝箱に大事にしまっておこうかしら。でも、こんなに素敵な絵はパパにも見てほしいから、やっぱり額縁に入れて飾っておきましょう。
もはや何枚目になるのか数え切れないほど贈ってきた似たり寄ったりの絵。けれど、グランマがその一枚一枚を大切に保管して、時には目に見えるところへ飾ってくれていることをケイは知っていた。
今しがた手渡した絵も宣言通りに額縁へ入れられることだろう。自分はグランマに愛されている。その揺るぎない事実を再確認して、幼い心は満たされる。ケイにとって物置部屋が秘密基地なら、グランマは安全基地そのものだった。
いつだってケイを愛し、満たしてくれる老女は不思議なくらい孫の気持ちを理解してくれていた。今もケイをさらに喜ばせようと、素敵な提案をしてくれる。
——そろそろおやつにしましょうか。今日はちょっぴり寒いから、ホット・チョコレートを作ろうと思うのだけれど、いかが?
——のみたい!
——それじゃあ、一緒にキッチンへ行きましょうね、食いしん坊さん。
そう言ってケイの鼻先をちょんと指でつつくと、グランマは当たり前のようにケイの手を握り締めた。そうして台所までの短い道のりを、ふたりは手を繋いだまま歩んでいったのだった。
そんないつかの冬を回想し終えた途端、ちくりとした小さな痛みが胸を刺す。だが、それは一瞬のことだった。たった今、思い返した記憶の中に、手掛かりになり得る情報があったことに気付き、俄かに意識がそちらへ逸れていく。
「……宝箱……」
グランマの宝箱。大昔はクッキーが入っていたと言う、きれいなピンク色のブリキ缶。ケイが贈った他愛無いプレゼントや手紙を大事にしまっていたそれ。
そこに鍵がしまわれているとは限らない。けれど、何故か確信めいた予感があった。その虫の知らせに背を押されるようにして、ケイはすぐにグランマが生前に寝起きしていた一室へ向かった。
庭に面した小部屋は、今はほとんど出入りしていない。既に亡くなった部屋の主に無断で足を踏み入れることにどうしても躊躇を感じてしまうのが主な理由だったが、どうしてか、今のケイは物置部屋の鍵を手に入れることが何よりも大事な気がしていた。深く息を吸い、大きく吐き出す。心の準備はそれで完了した。
「おじゃまします、グランマ」
ドアを開く直前に小さな声で断りを入れ、長らく閉ざされていたグランマの私室へそろりと踏み入る。久方ぶりに入った部屋は記憶の中とほとんど変わりがない。品よくシンプルにまとめられた室内に色を添える数々の思い出の品。棚にはケイが小学校の図画工作の授業で作りあげた力作たちが並び、壁には額縁に入れられたイラストや表彰状が飾られている。先ほど回想した記憶の中でグランマに贈った例の絵も、きちんとその中に肩を並べていた。
五年前からほとんど変化のない部屋の様子を見て、あの宝箱もまたその在り処を変えていないことを確信する。その考えは正しく、貯金箱や粘土細工が連なる棚の一番上。そこにあのきれいなピンク色を見つけ出す。
「あった……」
かつては台に乗らねば届かなかったブリキの缶を容易く手にして、自らのもとへ引き寄せる。早速、蓋に手をかけてみるが、長いこと放置されていた缶は少し固い。力を込めて腕を引くと、バコッと大きな音を立てながらようやく封が開かれた。俄かに高鳴り始めた胸の鼓動を抑えつつ、中を覗き込む。
「……手紙……?」
まず目に飛び込んできたのは、きれいな色の封筒であった。二通あるそれにはそれぞれ『Dear Kay』『Dear Rosie』と宛名が書かれている。細く軽やかなペン字の筆記体は、間違いなくグランマの筆跡だった。
手紙のうち片方が自分宛であることを確かめ、ひとまず二通まとめて手に取ってみる。どちらも糊付けが甘いのか、封された蓋の端が微かに浮き上がっている。片方の宛名に心当たりはない。とりあえず自分宛の手紙を読んでみるべきだろうか。でも、まさか手紙が遺されているなんて思いもしなかったから心の準備ができていない。
どうしたものかと俄かに頭を悩ませていると、持ち上げた封筒の下、宝箱の中で何かがキラリと光るのが見えた。窓から射し込む光を微かに反射するそれは自然と目を引く。そうして、その正体を視認した瞬間、ケイは思わず僅かに目を見開いて呟いた。
「鍵……やっぱり、物置の……?」
押し花の栞や乾燥しきった落ち葉、古びた拙い手紙の上にちょこんと乗ったそれは、小さな鍵だった。この家で鍵を必要としている部屋はひとつしかない。ドキドキと脈打つ胸の鼓動がさらに速度を上げる。
小さな鍵の煌めきはごくごくささやかなものだったけれど、それはケイに何かの始まりを告げているような気がした。




