グランマのお家Ⅰ
「よいしょ、っと」
息を詰めるような掛け声と共にドサリと重たい音を立て、段ボール箱が床に置かれた。何度目かもわからないほど繰り返されているその声と音は、もはやBGMと化している。廊下を挟んだ向かい側の部屋――寝室兼書斎の中には中身の詰まった箱の数々が既に山のように積み上げられているけれど、これまでの経験からそれがまだ序の口であることはわかっていた。
これはまだしばらくかかりそうだな。そう考えるや否や、部屋の主である父が首にかけたタオルで額の汗を拭いながら声をかけてきた。
「桂、荷解き進んでるか?」
「多分あと半分くらいかな」
「桂は手際がいいな。父さんはしばらくかかりそうだよ」
「父さんは本が多いもんね。手伝えることがあったら手伝うけど」
引っ越し業者が運び入れてくれた荷物も、その中身を取り出してきちんとあるべき場所へ収めるのは、結局のところ自分たちの仕事だった。もとより私物と呼べるものがそこまで多くないケイは現時点で既に作業の終着点が見えている。ならば余力のある自分が手伝うべきだろうと考え、手助けを申し出たのだが、父は汗まみれの顔を横に振って笑った。
「こっちは大丈夫。自分のことは自分でやらなきゃな。でも、とりあえずご近所へ挨拶に行ってくるよ。昼飯はどうしようか」
「俺はこれがあるから。お構いなく」
そばに転がしておいたパック入りのゼリー飲料を手に取り、振るようにして見せる。近頃はよく世話になっている商品であったが、その無機質なパッケージを目にした父は眉を寄せ、親らしい心配の色を面差しに乗せた。
「そういうものはたしかに便利だけど、そればかり食べるのはよくないぞ。何か食べたいものはないのか?」
「食欲、ないんだ」
ここ数か月、何度も繰り返してきた決まり文句を告げると、一瞬、ふたりの間に静寂が漂った。言葉を喉へ詰まらせるように口を噤んだ父の顔を見て、少し申し訳ないような気持ちが湧き上がる。しかし、何を言えばいいのか迷っているうちに父はふたたびゆっくりと口を開き、言葉を選ぶように切り出した。
「……でも、人間、何か食べないといけないだろ。ちょっと行ったところにコンビニができたみたいだから、蕎麦でも買ってくるよ。引っ越し蕎麦は縁起物だし、いいだろ? しかし、こんな田舎にもコンビニがあるっていうのはありがたい話だよな。父さんは料理が得意じゃないから本当に助かるよ。じゃあ、少し留守にするから、留守番頼むな」
「うん。いってらっしゃい」
お手本のような空元気を発揮してそそくさと出かける父の背中を見送り、ケイは小さく溜息と吐いた。ここ最近、親子の間を流れ続けているギクシャクとした空気がまだ周辺に残っているようで、なんだか気が重い。
仲が悪いわけではないのだが、早くに母を亡くしたせいか、あの父は時おり空回りするようなところがある。いや、空回りさせているのは他の誰でもない自分なのだろう。昔から引っ込み思案な上に口下手なせいで随分と心配をかけている自覚はあった。
昔は同居していた母方の祖母が間に入っていてくれたおかげで、それなりに親子仲というものを形成できていたようにも思うが、その祖母も昨年病に倒れ、亡くなった。それからというもの——否、それよりもさらに昔、父の仕事の都合で祖母と住んでいたこの家を出て以来、ふたりの仲は何処かぎこちない。もう少しこちらから歩みよればいいとはわかっている。でも、どうしたってそんな気力は湧きそうになかった。
ふと微かな疲労を感じ、作業の手を止め、床へ腰を下ろす。周囲を見渡せば、五年ぶりに戻ってきた自室は多少の埃が積もっているものの、かつて出ていった瞬間から時が止まってしまったかのようにあの日のままそこにあった。もっと幼い頃に読んでいた児童書や毎晩一緒に眠っていたテディベアは、まるで部屋の主が帰ってくるのを待っていたような顔をして静かに佇んでいる。身だしなみを大事にしていた祖母が置いてくれた姿見も、多少の曇りはあれど割れることもなく、今は狭い世界とそこへ戻ってきた十六歳の少年を映し出していた。
くすんだ鏡面に映り込む己の顔。長らく鋏を入れていない前髪の下、祖母と同じ色をした瞳がこちらを見つめている。光の加減によっては金色にも見える双眸。昔、若い頃にイギリスから日本へ流れ着いたという祖母の血を——彼女の眼は自分よりも幾分かくすんだような色味をしていたけれど——色濃く受け継いだ証。それはこの国ではあまりに目立ちすぎるがゆえに、いつもはカラーコンタクトで隠しているが、この眼を嫌ったことはこれまでに一度もない。
鏡の中の自分としばし見つめ合い、ケイはゆっくりと瞼を下ろした。そして少し埃っぽい、けれど懐かしい匂いに満ちた部屋の空気を大きく吸い込んで細く吐き出し、その最後にポツリと呟く。
「ただいま、グランマ」
今は亡き祖母の愛称を口にすれば、瞼の裏に自分が本当に幼かった頃の思い出がまるで昨日のことのように浮き上がる。あれは、そう、小学校へ入学するよりも前の春のことだった。
——グランマ!
色とりどりの花に溢れた庭を慌てて駆け、大きな声で彼女を呼んだ。すると、ちょうど植木鉢のカモミールに水をあげていたグランマはただ事ではないケイの様子に目を丸くして屈みこみ、幼い孫と目線を合わせた。
——ケイ、どうしたの。
——おおきなハチがいた!
怯え、情けなく震えた声で訴えるが、彼女はいつもと同じように優しく微笑み、ケイの腕にそっと自身の手を添えた。それからいつもと変わらぬ穏やかな声色で、やはりいつもと同じように事あるごとに世界を恐れる怖がりの孫に心配はいらないと教えてくれるのだ。
——怖がらなくても大丈夫。蜂さんも、こちらが驚かさなければ刺してこないのよ。
——ほんとう?
——本当ですとも。蜂さんはお花の蜜を集めて蜂蜜を作ってくれる良い虫さんだから、そっとしてあげましょうね。
——ハチミツって、パンケーキにかける、あのハチミツ?
——そうよ。ケイの大好きなパンケーキにかける、あの甘~い蜂蜜は、蜂さんが頑張って作ってくれるの。
——ぼく、グランマのパンケーキだいすき。ハチミツもだいすき。
今泣いた烏がもう笑う。大好物のパンケーキを思い浮かべた頭には、もう蜂への恐怖なんてこれっぽちも残っていない。でも、その代わりにいつだって胸の中にある想いがより大きく膨らんでいた。赤ん坊の頃からずっと優しい祖母の庇護下にある男の子は幼子らしい無邪気さで、その温かく柔らかな感情をいとも簡単に口にする。
——あのね、あとね、グランマも、だーいすきっ。
ちょっぴりはにかみ、自らの心をすべて贈るような気持ちで告げれば、グランマは皺にまみれた豊かな面貌を融かすようにして笑った。そして、幼い心が期待した通りに、まろやかな声音が歌うようにお決まりの答えを返してくれるのだ。
——I love you too.
ケイが生まれてから何度も何度も繰り返してくれた愛の言葉。春の陽射しのような、はたまた夜中に飲む温かなミルクのようなそれが頭の中に鳴り響く。
「……パンケーキの作り方、教えてもらっておけばよかったな」
誰に聞かせるわけでもなく独り言ち、ゆっくりと眼を開く。シンとした静寂に満ちた家にグランマはもういない。無条件の愛に守られていた男の子は、今はたったひとりで膝を抱えている。
換気のために開かれた窓の向こう、二階にある自室の床に座ったままでは見ることのできない小さな庭を思う。かつては花に満ち溢れたグランマのお庭。幼い頃はあんなに広く感じたそこも、五年の月日を跨いでみれば記憶よりも随分と狭く感じた。
柔らかな陽光の中、キラキラと煌めきながら揺蕩う埃を見つめながら、適当に結んだ己の髪に触れる。グランマが倒れたと聞かされて以来、どうしてか切ることができなくなった髪を指で弄り、ケイはまた一度、小さく息を吐き出した。




