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ちょっとした厄介事

 気付けば、風の匂いが変わり、木々に芽吹いた若い葉もすっかり晴れた空気に馴染みつつあった。春も終わりに差し掛かり、時おり夏の気配が顔を覗かせる。薄っすらと汗ばむ日もあるが、まだ雨も少ない、いい季節だ。

 そんな心地好い陽気にも関わらず、春先に転校してきた学校での学生生活にも、同時期に始まった不思議な花屋でのアルバイトにも、それなりに慣れてきたはずのケイはじわりと迫りくる焦燥に駆られていた。と言っても学業やアルバイト自体に何か問題があるわけではない。ただ、花屋の店長である花の魔女ロージーとふたりきりになれない。それだけのことなのだが、彼女へ訊ねたいことができてからというもの、ケイの頭の中に根付いた疑念は膨らむ一方だ。そろそろどうにか質問の場を作らないと、いつまで経っても気持ちが落ち着かない。

 今日もこれからアルバイトの予定だが、授業が終わり、一日を締め括るホームルームも終えようとしている今、少し急げばいつも帰路として利用しているバスの便を一本早いものにできるだろう。花屋へいつもより早めに向かい、今日も自室に引きこもっているだろうロージーを直接訪ねてみるのもいいかもしれない。

 そうと決まればさっさと帰るが吉だ。ちょうどホームルームが終わり、担任の教師が教室を去っていくのを視界の端で捉えつつ、荷物をまとめる。すると、その最中、不意に誰かがケイの机の前にしゃがみ込んだ。その正体を確かめるために視線を上げると、見るからに人懐っこそうな笑顔が目に入った。


「なぁなぁ雨森クン」


 親しげに声をかけてきたその男子生徒の顔には見覚えがある。いまだにクラスメイトの名前と顔の一致度が完璧とは言えないケイだったが、目の前の彼に関してはそれなりに記憶していた。頭の中に蓄えた情報の中から彼の名前を引っ張り出す。


「……えっと、佐々木くん?」

「正解! オレのこと覚えてくれたん?」

「うん、まあ」


 妙に嬉しげな佐々木くんへ曖昧に頷いておく。良し悪しは置いておくとして、クラスの中でもっとも騒がしい彼は否応なしに目につくのだ。無邪気なお調子者といった印象を名と顔に結び付けて記憶していたが、今のところその所感は外れていないように思える。

 机のふちへ手をかけ、そこに顎を乗せるようなポーズの佐々木くんは、人好きの犬を思わせる調子でケイに声をかけてきた理由を話し始めた。


「あのな、オレな、西高(ニシコー)の鈴木とダチなんだけど、雨森クンって欅小(ケヤキショー)出身なんよな?」

「え、ああ……そうだけど」


 一度グランマの家から引っ越すまで在籍していた小学校を話題に出され、少々面食らう。田舎ゆえか児童数もそう多くない学校だったために、学校名と共に出てきた名前にも心当たりはあった。しかし、該当する人物にまつわる記憶は薄い。お世辞にも仲がいいとは言えない者の名を持ち出された理由がわからず、戸惑いながら、ケイは何処となく嫌な予感を覚えた。そして、その予感は的中する。


「そんでな、オレ、鈴木に聞いたんだけど、雨森クンの眼が黄色いってホント?」


 思わず荷物をまとめていた手が止まる。けれど、佐々木くんはそんなケイの様子に気付きもせず、好奇心にキラキラと輝く瞳のまま、無邪気に言葉を重ねていく。


「おばあちゃんが外国人だからって聞いたけど、いつもはカラコンしてるん? みんなと違う色してんのカッコイイのになんで? オレ、雨森クンがカラコン外したとこ見てみたい!」


 立て続けに投げかけられた疑問や要望に悪意はない。だが、ケイは完全に言葉を失ってしまっていた。半端に開いた口からはまともな音ひとつすら出てきやしない。

 たしかに、小学生時代はカラーコンタクトもせず、ずっと裸眼で過ごしていた。地域の人たちはみんなグランマのことを知っていたし、同世代の子どもたちも狭いコミュニティの中で幼い頃から顔見知りであったこともあり、グランマ譲りの瞳の色について誰かに触れられた覚えはほとんどない。ただおばあちゃん似なんだねと言われて終いだった。でも、見知らぬ土地に引っ越してからは話が別だ。

 きっと周囲に悪感情はなかったかもしれない。それでも幾度となく向けられた好奇の眼差しは、当時、初めて生まれ育った土地を離れたことで不安定になっていたケイの心をより一層、追い詰めた。そうして弱ったところに元来の人見知りな性格も相まって、余計なやり取りをできるだけ削減しようと思い至ってしまったのは、至極当然の帰結と言えるだろう。以降、ケイはカラーコンタクトを欠かさず着用するようになったのだが、このささやかな鎧は今こうして新生活を始める際に気兼ねなく振るまうための砦のような役割を担ってくれていた。みんなと同じ瞳(いろ)をしていれば、人と対面しても臆する必要はなくなる。そんな方程式が頭に染み込んでしまっているほどに、ケイにとって自らの眼というものは大きな問題となってしまっていた。

 しかし、近頃は瞳の色はおろか、姿かたちさえ千差万別な人々が存在する異世界というものを知り、ほんの僅かな一端とは言え世の中の広さを垣間見た。己の血筋を隠す目的から、念のために外ではカラーコンタクトをつけるように言いつけられているものの、眼の色如きで騒ぐことが馬鹿馬鹿しく思うくらいには本当に様々な種族を目にしてきたのだ。そのおかげで、ここ数年、ずっと抱え込んできた自らの瞳に対する負の感情は徐々に薄らいでいっているのは確かである。だが、それはあくまで——少なくとも現時点では——異世界での話だ。まさか今さらこ(・)ち(・)ら(・)の(・)世界で突きつけられることになるとは。

 偶然、知り合いのいない高校に転校できたこともあり、完全に油断していたケイは不意打ちのような一撃を前にフリーズすることしかできない。その元凶たる佐々木くんはケイの動揺を察することなく、引き続きキラキラした眼差しを向けてくる。そこにはやはり悪意はない。だからこそ、この場をどう切り抜けていいのかわからず、言葉に詰まる。

 そうして束の間、答えに窮していると、幸運なことに救いの手が差し伸べられた。視界の端に、既に席を離れていたはずの隣人——岡崎さんが教室へ戻ってきた姿が映り込む。彼女は真っ直ぐにこちらへ向かってきて、愛想のいい笑みと共にこの場を打開するひと言を授けてくれる。


「雨森くん、先生が呼んでるよ」


 一瞬、岡崎さんが女神に見えた。なんて馬鹿なことを考えながら、そそくさとその助け舟へ乗り込む。


「あ、うん。わかった。ごめん、佐々木くん。俺、行かなくちゃ」

「先生に呼ばれたらしょうがないかぁ。そんじゃーまたな、雨森クン!」


 結局、質問や要望には何ひとつ応えずに終わったけれど、佐々木くんはまったく気にすることなく送り出してくれた。その屈託のなさに微かな罪悪感を覚えつつも、迷いなく教室の外へ逃げ出す。特に呼び止められることもないまま、無事に解放されたことにホッと胸を撫で下ろし、ケイは一緒についてきた岡崎さんへ心からの感謝をこめて声をかけた。


「ありがとう、岡崎さん。どの先生が呼んでたかな」

「嘘なの」


 え、と間抜けな声が喉から漏れ出る。そんなケイへ岡崎さんはチロリと可愛らしく舌を出し、彼女にしては珍しく悪戯っぽい表情を作ってみせた。


「先生が呼んでるっていうのは嘘。雨森くん、困ってそうだったから……」

「……本当にありがとう、岡崎さん。おかげさまで助かりました」


 なんともありがたい機転に感服を覚えながら、深々と頭を下げる。妙に改まった謝意を受けた岡崎さんは自身の口元で人差し指を立て、微笑んだ。


「ふふ、どういたしまして。佐々木くんには秘密ね?」


 そう言って僅かに首を傾げる彼女は悪戯が成功した子どものような顔をしている。岡崎さんが嘘をつくなんて意外ではあったが、隣人の思わぬ一面は何処か微笑ましさを感じるものだ。今のふたりは平和的な共犯者と言えるだろう。

 その小規模な謀のおかげで、いくらか時間を取られてもなお、予定のバスへの乗車には間に合いそうだ。時計を確かめてその事実に気付いたケイは、また一度、心の中で岡崎さんへ感謝の気持ちを抱きながらしっかりと頷いてみせたのだった。

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