カモミールⅡ
——ふぅん。カモミールね。いいんじゃない。
蚤の市から帰った後、ラナからカモミールの苗を分けたいという話をされたロージーはあっさりと了承してくれた。ケイの予想していた展開としては嫌味のひとつやふたつは飛んでくるものだと思っていたが、それどころか彼女は親切にも助言を付け加えた。
——カモミールは虫がつきやすいから虫除けのスワッグも持っていきなよ。
——あら、ロージー。随分と気前がいいのね。
——別に。蜂や蝶ならともかく、アブラムシなんかに集られたら花が可哀想だろう。
ケイと同じく意外に思ったらしく目を丸くしたラナへ、ロージーがつっけんどんに答える。それからひとつ咳払いをすると、彼女は自らの店の商品について説明を添えた。
——うちのポプリやらスワッグは開店当初から売れ行きのいい品でね。知り合いの蟲使いの魔女も嫌な顔をするほどだから、効果は保証するよ。
——たしかに人気の商品だけれど、それにしても近頃はよく虫除けが売れているわ。また仕込んでおかなくちゃ。
——今年は暖かいからね。虫も活気づいているのかも。君もせっかくのカモミールを虫に食われないように気をつけなよ。
しっかりと釘を刺しつつ、カモミールの苗と虫除けのスワッグを分けてくれた花の魔女はいつかトーラスが言っていた通り、存外、世話焼きなのだろう。彼女には訊きたいことがあるのだが、それはふたりきりになった次の機会としておくことにして、今回は素直にその好意に甘えた。
そうして花屋からいくつかの苗を持ち帰った時には、既に陽が沈んでしまっていた。そのため、当日中の植えつけは諦め、昨夜は早めに就寝し、代わりに早朝から活動しようと目覚めたのが一時間ほど前のことだ。
結局、苗とスワッグ以外にも土や植木鉢の底に敷く石なんかも融通してもらい、どうにかひとりでカモミールを植え替えた。ラナから教わった通りに、新しい土と根を馴染ませるために鉢の底から水が流れ出るまでたっぷりと水やりをすれば、ひとまずの作業は完了する。
青々と茂るコスモスのそれにも似た葉を見下ろし、今度はそばに置いておいたスワッグを手に取る。雨風に晒されない場所へ設置しろと言われた虫除けの壁飾りは、軒下の辺りへ吊るすことをあらかじめ決めていた。適当な台を引っ張ってきてどうにかスワッグを吊るし、その下に植木鉢を置く。
「……これでいいのかな」
ポツリと呟くが、答えてくれる誰かはいない。今後の成育を見て、自分で判断していくしかないのだ。けれど、物置部屋のあの扉を潜れば、花に詳しい人たちがそこにいる。いざとなったら頼れる者がいるというのは心強い。
もしもカモミールを虫にでも食われたらロージーにまた嫌味を言われてしまう。そうならないためにも、わからないことがあったらすぐに訊ねよう。
軒下でひとり決意していると、不意に家の中から父の声が聞こえてきた。
「あれ? 桂、何処行った?」
どうやら朝の仕度を終え、そろそろ出かける時刻となったようだ。ケイに出発の挨拶をするために姿を探しているのだろう。
もうそんな時間になるのか。夢中で作業していたせいか気付かなかった。
土まみれの軍手を脱ぎながら、ケイは屋内へ向かって声を張った。
「父さん。俺は庭にいるよ」
まだ朝早いこともあり、張ってもなお大きいとは言えないケイの声も静寂の中でよく通る。壁の向こうで俄かにガタガタと忙しない音が立った。そのまま少し待つと、リビングの掃き出し窓が開き、そこから父が顔を出す。まだ寝ぐせが直りきっていない頭のまま、彼は安心するように笑った。
「なんだ、庭にいたのか。てっきりもう登校しちゃったのかと思ったよ」
「さすがにまだ少し早いかな」
「だよなぁ。……あれ。それ、植えたのか?」
おどけながら目敏く鉢植えを見つけた父からの問いかけに、ケイは平然とした表情を取り繕った。まさか扉の向こう側の話をするわけにもいかない。だが、嘘を吐くのも気が引ける。故に、しゃべっても問題なさそうなところだけを抜き取って、不自然にならないように答える。その心構えは、花屋で働き出した頃から既に作り上げていた。
「うん。カモミール。昔、グランマが育ててたのを思い出して」
「おばあちゃん、花とかハーブとか育てるのうまかったもんな。父さんも庭仕事を手伝えればいいんだけど、なかなか時間が取れないからなぁ」
「父さん、忙しいもんね。俺、これから少しずつ庭をきれいにしていこうと思ってるんだ。だから、うまくいくかはわからないけど、ひとまず俺に任せてみてよ」
「おお、頼りになるな。孝行息子ってやつだ」
「そんな大袈裟なものじゃないよ……。それより父さん、時間は平気なの?」
「あ」
もともとケイに出発の挨拶をするためにやってきたというのに呑気におしゃべりを続ける父へ指摘すれば、彼は目を丸くして間抜けな声を漏らした。やはり忘れていたらしい。相変わらずのそそっかしさを発揮した父は眉を下げてたちまち慌て始めた。
「ごめん、桂。もう行かなきゃ。戸締り頼むな!」
「うん。いってらっしゃい。気を付けてね」
バタバタと騒がしく飛び出していく父を見送り、ケイは辺りを軽く掃除した。既に朝食は食べ終えているし、慣れないガーデニングに手間取ることも考えて登校の準備も済ませてある。登校するには少し早い時間だが、手持無沙汰なのも確かだ。今からのんびりとバス停へ向かっても、いつもより二本早いバスが到着する時刻にすら間に合うだろう。たまには教室で読書などしてみてもいいかもしれない。
そう決め込んだケイは家へ戻って洗面所で手を洗った。土と草の湿ったような、青っぽい匂いが、ハンドソープの仄かなシャボンの香りに流されていく。きっちりと汚れを落とし、父から言われた通りに戸締りを確認する。いつもと同じように特に問題がないことを確かめれば準備は万全だ。
「——よし。いってきます」
最後に庭を覗き、そよ風に吹かれて微かに揺れ動くスワッグとその下の植木鉢へ声をかける。軒下に射し込む柔い朝日の光に包まれ、まだ花のないカモミールの葉が淡く煌めく。鉢植えをひとつ増やしただけなのに、長らく眠っていた庭がまた息をし始めた。そんな気がして、ケイの足取りは自然と軽やかなものになる。
小さなお庭の片隅にひっそりと仲間入りしたカモミールに見送られ、ケイは一羽の燕のように家を飛び立っていった。
第一章「春」完。




